| 豊安丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 126馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
■ 詳細
1865年にイギリスで建造されました。原名は「ジャパン」。1866年7月にイギリスより購入されたが、後に芸州藩の所有船となっています。その経緯は不明だが、豊安丸は新政府軍の輸送船として函館戦争にも参戦しています。
所属した江戸幕府と、長崎海軍伝習所
この船・豊安丸を運用したのは、江戸幕府です。ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、本格的な洋式海軍の育成を急ぎました。
その第一歩が、安政二年(1855)に長崎で開かれた海軍伝習所です。オランダ人教官を招き、勝海舟や榎本武揚ら、のちの幕府海軍を担う人材がここで航海術や砲術を学びました。豊安丸のような艦船は、そうして育った人材が動かした幕府海軍の一翼でした。全体像は幕末の軍艦のページもどうぞ。
幕末軍艦一覧リスト
原名は「ジャパン」、売ったのはオールトでした
千八百六十五年のイギリス生まれで、原名をジャパンといいます。幕府が買ったのは慶応二年七月十七日、長崎でのことで、値は洋銀十一万ドル。売主はイギリス商人のオールト、つまりウィリアム・オルトです。土佐藩へ乙女丸や夕顔丸を売ったのと同じ人でした。四百七十三トン、百二十六馬力。二百五十五トンとする説もあります。
いつのまにか、芸州藩の船になっています
この船で分からないのは、幕府が買った船がどうして広島藩のものになったのか、という点です。経緯を書いた資料は見つかりませんでした。確かなのは、明治元年十月に広島藩の兵を品川から大坂へ運んでいることです。この時点で広島藩と関わりがあったことは言えますが、藩の持ち船だったのか、運ぶ仕事を請け負っただけなのかは分かりません。
箱館へ行った八隻の一隻です
明治二年三月、新政府の艦隊が品川を出て函館へ向かいました。軍艦が甲鉄艦、春日、丁卯、陽春丸の四隻。輸送船が徳島藩の戊辰丸、久留米藩の晨風丸、飛龍丸、そしてこの豊安丸の四隻です。三月二十五日の宮古湾海戦にも居合わせました。出港の日を三月八日とする資料と、三月九日とする資料があります。
広島藩のページと、同じ船です
当サイトには豊安丸という広島藩のページがあり、同じ一隻を扱っています。この記事は幕府が買ったのちに芸州藩の船になったとし、あちらは広島藩が買ったとしていますが、慶応二年七月十七日に長崎で洋銀十一万ドルを払って買ったのは幕府で、売り主はイギリス商人のオールトでした。どちらのページも残したうえで、相互に注記しておきます。幕府から芸州藩へ移った経緯は、依然として分かっていません。
参考資料:Wikipedia日本語版「豊安丸」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
同じころの幕府——改税約書
関税の引き下げ 豊安丸が幕府の船となる二か月前、慶応二年(1866)の五月、幕府はイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国と「改税約書」を結びました。輸入品にかける関税を、それまでの平均二割ほどから、一律に五分(五パーセント)ほどへと大きく引き下げる取り決めです。前年に兵庫沖に艦隊を送り込んだ各国の圧力に、幕府が押し切られた結果でした。
その影響 安い外国製品が大量に入ってくるようになり、日本の綿織物などの産業は大きな打撃を受けます。明治政府は、この不利な取り決めを含む不平等条約の改正に、長い年月をかけて取り組むことになりました。

