新発田藩の歩み
「戊辰戦争」が勃発すると新発田藩では新政府軍よりの立場をとろうとするも、近隣諸藩が「奥羽越列藩同盟」に加盟したため、やむなくこれに加盟します。同盟側は「新発田藩」を参戦させようと謀り、藩主「溝口直正」を人質にとろうと試みたが、新発田藩の強い抵抗にあい阻止されました。

その後、新政府軍が高田藩にまで進出すると長岡藩との間で北越戦争が勃発。この戦闘の最中「新発田藩」は突如新政府軍に合流し参戦することとなります。長岡藩はこの裏切りにより挟撃される形となり、結果的に城は落城し藩主以下会津へと退きました。
新政府軍に投じたため新発田藩領は戦火から守られたが、この時の裏切り行為は越後長岡藩などから非難され後々まで周辺地域との間にしこりを残すことになりました。それでも新発田藩溝口家は処罰を受けることもなく、明治時代に至るまで12代にわたり新発田を統治しました。
越後の大藩・新発田藩
新発田藩は、越後国蒲原郡(現在の新潟県新発田市)に置かれた十万石の藩で、美しい新発田城を居城とし、藩主は溝口家でした。越後平野の北部を治める、この地方の有力な藩でした。
北越戦争での転換
戊辰戦争の北越戦争において、新発田藩は当初、奥羽越列藩同盟に加わっていました。しかし新政府軍が越後へ迫ると、藩は同盟を離れて新政府側へと転じます。この動きは同盟軍の背後を突く形となり、北越の戦局に大きな影響を与えました。大藩ゆえに、その進退が戦いの行方を左右した藩です。
十万石になったのは、幕末の八年前です
新発田藩といえば十万石ですが、この石高は江戸時代の大半を通じての数字ではありません。万延年間(1860年)の高直しで認められたもので、戊辰戦争のわずか八年前のことです。それまでの新発田藩は五万石でした。
溝口秀勝が慶長三年(1598年)に入ったときは六万石。慶長十五年(1610年)に善勝へ一万石を分けて五万石になり、そこから二百五十年動きません。その間に藩がやっていたのは、新田開発と干拓と治水です。低湿地帯の蒲原平野を代々耕地に変え続け、福島潟の干拓工事や享保十五年(1730年)以後の松ヶ崎掘割によって、実収は「内高四十万石」といわれるまでになりました。万延年間の高直しは、その実態に表高を近づけた手続きだったと見ることができます。
つまり新発田藩の十万石は、幕府から与えられた格ではなく、二百五十年かけて土を作った結果の数字です。
大名の交代がなかった藩
初代溝口秀勝は天文十七年(1548年)生まれ。幼年期に丹羽長秀に仕え、天正九年(1581年)に織田信長から直接任命されて若狭高浜城主五千石、天正十一年(1583年)の柴田勝家討伐の功で加賀大聖寺城へ移って四万四千石、そして慶長三年に越後新発田六万石へ移りました。新発田市の解説によれば、慶長三年正月に移封令が出て、同年四月二日に越後へ入っています。越前北庄から移ってきた堀秀治の与力大名として、村上頼勝とともに配された形です。
秀勝はまず五十公野に館を設けて住みながら、新発田城の縄張りと築城を始めました。関ヶ原の戦の際には越後国一揆を鎮圧しています。慶長十五年(1610年)没。
この溝口家が、十二代・二百七十四年にわたって大名の交代なく維新を迎えました。すぐ北の村上藩が村上・堀・本多・松平・榊原・本多・松平・間部・内藤と九つの家を迎えたのに対し、新発田は入封から廃藩まで一度も家が替わっていません。
鯱が三匹のる櫓
新発田城は別名を菖蒲城(あやめじょう)、浮船城、狐の尾引き城といいます。
現存する建物は二棟です。表門と旧二の丸隅櫓が、昭和三十二年(1957年)六月十八日にそろって重要文化財に指定されました。表門は脇戸付の櫓門で入母屋造・本瓦葺、旧二の丸隅櫓は二重二階の隅櫓で同じく入母屋造・本瓦葺です。いずれも現存の建物は江戸末期の再建です。文化遺産オンラインの解説は表門について「北陸地方としては遺例が少い貴重な遺構である」と述べています。
この城でいちばん変わっているのは三階櫓です。明治初期の写真から、三重目の屋根の棟が丁字型に造られ、その棟上に鯱が三匹載せられていたことが分かっています。鯱は通例二匹ですから、三匹というのは全国的にもほとんど例がありません。この三階櫓は平成十六年(2004年)に復元されました。
ただし内部を見ることはできません。城跡の一部は現在、陸上自衛隊新発田駐屯地(第三十普通科連隊)の敷地となっており、三階櫓はその中に建っているためです。外から丁字型の棟と三匹の鯱を眺めることになります。
明治四年の廃藩置県で新発田城は破却され、明治六年(1873年)の城郭破却令のあと跡地には歩兵第十六連隊が置かれました。城の敷地が軍の敷地であり続けたという点でも、少し変わった城跡です。
十三歳の藩主と、領民が守った人質
十二代溝口直正は安政二年(1855年)二月二十五日生まれ、十一代直溥の四男です。慶応三年(1867年)八月二十八日、父の隠居により家督を継ぎました。慶応四年、北越戦争のときは満十三歳です。
その慶応三年十二月二日、藩主は朝廷と幕府の双方から上京を命じられます。実際に動いたのは家老の窪田平兵衛で、一行十余名を率いて京都へ赴きました。十三歳の藩主を抱えた藩の判断は、この時期すでに家臣団が担っていたわけです。
慶応四年の動きを日付で並べると、この藩が置かれた立場が見えてきます。
五月十五日、米沢藩の中老らが同盟への加盟を強く迫ります。五月十六日、奥羽越列藩同盟に署名。五月十九日、藩兵の出陣式。六月九日、同盟諸藩による包囲網が形成され、最後通告を受けます。六月十九日には初陣で戦勝もしています。
そして六月、同盟側が藩主溝口直正を人質に取ろうとし、領民がこれを阻止しました。新発田市の公式の年表にそう記されています。十三歳の藩主が連れ去られるのを、干拓と治水で土地を作ってきた側の人々が止めたことになります。
七月二十五日、新政府軍が新発田藩領の太夫浜へ上陸戦を開始します。指揮は山田顕義。新発田藩は抵抗せず開城し、新政府側へ帰順しました。七月二十九日、黒田清隆の指揮で新潟町が制圧されます。八月一日、見附で降伏。
周囲はどうだったか。三日市藩主が七月二十八日、三根山藩主が八月二日に恭順しています。村松城は八月四日に落ち、村上城は八月十一日に落ちました。新発田の帰順は、この崩れの最初のひと押しでした。「裏切り」と書かれるのはそのためですが、五月十六日の署名そのものが六月九日の包囲に先立つ武力的な圧迫のもとで行われたことも、あわせて見ておく必要があります。
藩校と、下屋敷と、足軽長屋
藩校は道学堂です。明和九年(1772年)に八代藩主溝口直養(なおやす)が設けました。武士だけでなく庶民にも広く開かれた藩校で、「社講制度」に特徴があったとされます。
清水園は旧新発田藩の下屋敷です。平成十五年(2003年)八月二十七日、「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園」として国の名勝に指定されました。清水園と五十公野御茶屋庭園の一括指定です。下屋敷は寛文六年、五十公野御茶屋の庭園は文化十一年のものとされます。作庭したのは幕府の茶道方で遠州流の茶人、縣宗知(あがたそうち)。京風の回遊式庭園です。
そのすぐ近くに、旧新発田藩足軽長屋があります。昭和四十四年(1969年)十二月十八日に重要文化財。桁行四十三・六メートル、梁間七・三メートルの寄棟造・茅葺で、天保十三年(1842年)の建築です。八軒が一棟に連結され、各戸は玄関に六畳二室、三畳、台所という間取りです。文化遺産オンラインは「この種の建物はほとんど他に残されていない」と記しています。
上級武士の庭園と最下級の足軽の長屋が、同じ町に、どちらも国の指定を受けて残っている。新発田を歩く価値はここにあります。片方だけでは藩は見えません。
その後
明治二年(1869年)六月、版籍奉還により溝口直正が知藩事となり、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で免職となりました。新発田県を経て新潟県に編入されます。
直正は明治十七年(1884年)に伯爵となりました。大正八年(1919年)十月十七日、六十五歳で亡くなりました。
新発田藩をもっと詳しく
本家と分家・親戚の家
本文にある慶長十五年(1610年)の一万石の分知は、初代秀勝が亡くなり、二代宣勝が家を継いだときのものです。分けられたのは秀勝の次男で宣勝の弟にあたる溝口善勝で、善勝はこれによって沢海(そうみ、現在の新潟市内)に分家の沢海藩を立てました。
沢海藩はその後、さらに一族へ領地を分けて一万石ほどになりましたが、貞享四年(1687年)八月、藩主の溝口政親が百姓に重い年貢を課し、酒に溺れて乱れた振る舞いをしたとして領地を没収され、廃藩となっています。本家の新発田藩が一度も家が替わらずに続いたのとは対照的に、分家は八十年足らずで消えました。また三代宣直の時代には、三人の弟にもそれぞれ領地が分けられています。
領地のようす
新発田藩の領地は、いまの新発田市を中心に、新潟市東部・阿賀野市・加茂市・南蒲原郡にまで広がっていました。その中心となる蒲原平野は、もとは低湿地のため、そのままでは耕作に向かなかったとされます。本文で紹介した干拓と治水は、この地形を相手にした仕事でした。
海防と「勤王の新発田」
十代藩主の溝口直諒(なおあき)は、享和二年(1802年)から天保九年(1838年)まで藩主を務めました。この時期、新発田藩は佐渡の海防にも関わり、文化五年(1808年)には砲術の心得のある者を佐渡へ送り、文化七年(1810年)から佐渡の警備に当たっています。異国船への備えで出費がかさみ、藩の財政はさらに苦しくなりました。直諒は自ら財政改革を指示しましたが、城下の大火や三条地震、天保の飢饉が重なり、大きな成果は上がりませんでした。
直諒は隠居後、学問論や海防論・勤王論の著作を書き、『報国説』『開国説』などで尊王開国の論を説きました。新発田藩はのちに「勤王の新発田」とも称されています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の表高十万石のこの藩はおよそ二千三百五十人が目安です(江戸時代の大半を占める五万石の時期なら、およそ千百八十人)。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「新発田藩」「沢海藩」「溝口直諒」
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長岡戦争とは?河井継之助が八丁沖を渡って長岡城を奪い返した北越戦争を図解でわかりやすく
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