小浜藩の歩み
幕末期、最後の小浜藩主となった「酒井忠義」は京都所司代として活躍しました。井伊直弼に協力して「安政の大獄」を積極的に推し進め、和宮降嫁や公武合体に尽力しました。元治元年の「天狗党の乱」では、忠氏が藩主だった小浜藩が鎮圧に加わりました。慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」では、旧幕府軍に与して「鳥羽・伏見の戦い」を新政府軍と戦ったが敗れて降伏しました。その後、小浜藩は新政府より「北陸道鎮撫使」の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦しました。

明治二年(1869年)の「版籍奉還」で酒井忠禄は小浜藩知事となり、明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」で小浜県となります。同年十一月には敦賀県となり、明治九年(1876年)に滋賀県に編入され、明治十四年(1881年)には福井県に編入されました。
「解体新書」で有名な医師「杉田玄白」は小浜藩の藩医でした。杉田玄白記念公立小浜病院が小浜城跡近くに設立されています。
若狭の要・小浜藩
小浜藩は、若狭国(現在の福井県小浜市)に置かれた十万石余りの藩で、小浜城を居城とし、藩主は名門・酒井家でした。日本海に面し、京都へ海産物を運ぶ「鯖街道」の起点として栄えた、若狭の中心をなす藩です。
京都所司代を務めた藩主
幕末の藩主・酒井忠義は、朝廷と幕府の折衝にあたる要職・京都所司代を務め、動乱の京都で幕府側の政務を担いました。安政の大獄をめぐる時期に朝廷対策の最前線に立った人物でもあります。鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れたのちは新政府に恭順し、時代の転換を受け入れました。幕政の中枢に近い立場から幕末を経験した藩です。
安政の大獄の「逮捕第一号」は、この藩の元藩士でした
梅田雲浜は、小浜で生まれ、小浜藩を追われた人です
京都所司代として安政の大獄を執行した酒井忠義の藩から、大獄の最初の犠牲者が出ています。梅田雲浜(うんぴん)です。
雲浜は文化十二年(1815年)六月七日、若狭小浜の生まれ(日本人名大辞典)。小浜藩士でしたが、嘉永五年(1852年)に藩政を批判して士籍を奪われ、浪人となりました(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典)。そして安政の大獄では、日本大百科全書が「最初に捕らえられ」、世界大百科事典が「逮捕第1号」と書いています。
藩主が所司代として執行した大獄で、最初に捕らえられたのが、その藩主の藩を追われた元藩士だった。ただし、忠義本人が雲浜の逮捕を指示したという具体的な記録(逮捕日や執行者)は、今回確認した資料には出てきません。言えるのは「忠義が所司代在任中に、元小浜藩士の雲浜が逮捕第一号になった」という事実までです。
雲浜は安政六年(1859年)九月十四日に獄死しました(日本人名大辞典)。ブリタニカは江戸の「小倉藩主小笠原忠嘉邸に預けおかれ、そこで病没」と書き、世界大百科事典は「取調べ中に病死」としています。→ 小倉藩・鯖江藩
所司代を二度務め、一度隠居して、また藩主に戻りました
酒井忠義は文化十年(1813年)七月九日生まれ、天保五年(1834年)に襲封しました(事典)。京都所司代は二度務めており、一度目が天保十四年から嘉永三年、二度目が安政五年六月から文久二年です(年月日は二次資料による)。事典は「京都所司代在職中、将軍継嗣問題で一橋派を弾圧し、安政の大獄の発端をつくる」と書き、日本大百科全書は「大老井伊直弼の腹心」として和宮降嫁にも奔走したとしています。
そして文久二年に所司代を免ぜられて蟄居し、家督は娘婿の忠氏に移りました。ここが要注意で、鳥羽・伏見のときの小浜藩主は忠義ではなく忠氏です。日本大百科全書によれば、小浜藩は鳥羽・伏見で「旧幕軍に属し、薩摩・土佐の軍と戦って敗れ」、その後朝廷への陳謝が認められて、藩主忠氏が北陸道鎮撫使の先鋒として従軍しました。
ところが明治元年十二月、忠義が再び家督を継ぎます(日付は二次資料による)。そのため忠義は「最後の小浜藩主」でもあるのです。名を忠禄と改め、明治二年に小浜藩知事となりました。改名の時期は、事典が明治元年、別の資料が文久二年としていて分かれます。明治六年十二月五日、六十一歳で没しており、華族令より前なので叙爵はしていません。
藩は元治元年(1864年)の天狗党の乱で鎮圧側にも加わっています。大獄を執行し、天狗党を鎮め、鳥羽・伏見で幕府側に立ち、そして北陸道の先鋒になった—小浜藩は幕末のあらゆる局面に、どちらかの側で顔を出しています。→ 水戸藩
三層の天守は、明治四年の火事で焼けました
小浜城は京極高次が慶長六年(1601年)に築城を開始しました。小浜市公式によれば三層の天守で総高二十九メートル、天守台の石垣は高さ十一メートル。そして明治四年(1871年)十二月、二の丸櫓から出火して大部分を焼失しました。廃藩置県の五か月後に、城が焼けたことになります。いまは天守台の石垣が残り、城跡に藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社があります。県の史跡指定は昭和三十一年とされます(二次資料による)。
藩校順造館は安永三年(1774年)、九代忠貫のときの創立です(日本大百科全書)。
若狭塗も、めのう細工も、鯖街道も、幕末より前です
小浜の名産は、年代で見るとどれも幕末より古いものです。
若狭塗は慶長年間に松浦三十郎が考案し、万治年間に大成、名付けたのは藩主の酒井忠勝とされます(事典)。若狭めのう細工は奈良時代に始まり享保年間に再興したとされます(福井県公式観光サイト)。鯖街道については、小浜市教育委員会の資料に十八世紀中頃の文書「生鯖塩して荷い京へ行き任る」が紹介されています。「鯖街道」という呼び名がいつ始まったかは分かりません。小浜市・若狭町の鯖街道は平成二十七年度に日本遺産に認定されました。いずれも幕末とは直接関係しません。
廃藩置県で小浜県となり、同年十一月に敦賀県、明治九年に嶺南は滋賀県へ編入され、明治十四年(1881年)二月七日に福井県となりました。若狭は五年間、滋賀県だった時期があります。→ 大野藩
小浜藩をもっと詳しく
藩の成り立ち
若狭は天正十五年(1587年)に浅野長政が領し、文禄三年(1594年)には木下勝俊・利房の兄弟に分けて与えられましたが、木下氏は関ヶ原の戦いで西軍に付いたため領地を取り上げられました(日本大百科全書)。
関ヶ原の戦い(慶長五年・1600年)の功で京極高次が若狭一国八万五千石を与えられて小浜に入り、これが小浜藩の始まりとされます。翌慶長六年(1601年)に近江高島郡で七千石、寛永元年(1624年)に子の京極忠高が越前敦賀郡で二万一千石を加えられ、十一万三千五百石となりました。寛永十一年(1634年)、忠高は出雲松江へ移り、代わって武蔵川越から酒井忠勝が入りました。忠勝は寛永十三年(1636年)に下野国で一万石を加えられて十二万三千五百石となりましたが、のちに分家へ領地を分けたため、幕末まで十万三千五百石でした。なお文久二年(1862年)に忠義が一万石を加増されたものの、所司代を罷免されるとともに減らされています(世界大百科事典ほか)。
酒井家の藩主は忠勝から忠禄(忠義の再襲)まで続き、世界大百科事典は十三代・約二百三十八年としています。
先祖と藩祖・酒井忠勝
酒井氏は西三河の坂井郷から起こった土豪で、松平氏の別流とされます。徳川家の譜代大名の中でも最高の家格に属し、「雅楽頭(うたのかみ)家」と「左衛門尉(さえもんのじょう)家」の二つの系統があります。小浜の酒井家は雅楽頭家の系統で、宗家の酒井重忠の弟・酒井忠利が別家を立てて川越藩主となったのが始まりです。
その子の忠勝は天正十五年(1587年)、三河国西尾の生まれです。二代将軍秀忠の命で世継ぎの家光付きとなり、寛永元年(1624年)に土井利勝とともに老中となりました。寛永十五年(1638年)に老中を免じられ、大事を議する日だけ登城するよう命じられたことが、のちの大老職の起こりとされます。家光からは忠勝一代に限り国持大名の扱いを受けました。明暦二年(1656年)に四男の忠直に家督を譲り、寛文二年(1662年)に七十六歳で亡くなっています。
本家と分家
寛文八年(1668年)、二代忠直が甥の酒井忠国に一万石を分けて安房勝山藩が生まれました。天和二年(1682年)には三代忠隆が弟の酒井忠稠に一万石を分け、越前の敦賀藩が生まれています。同じ年に三千石を分けられて旗本となった家もあります。勝山藩と敦賀藩はどちらも廃藩置県まで続き、明治に入って勝山藩は加知山藩、敦賀藩は鞠山藩と名を改めました。小浜藩は明治三年(1870年)に鞠山藩を合わせています。
藩主家の明治以降
酒井家の諸家のうち、小浜の酒井家は姫路・庄内の酒井家とともに伯爵となりました。分家の敦賀(鞠山)酒井家と加知山(勝山)酒井家は子爵となり、加知山酒井家は明治三十二年(1899年)に爵位を返上しています。
領地のようす
寛文年間の『寛文印知集』によると、小浜藩の領地は若狭国の大飯郡四十七か村・遠敷郡百十一か村・三方郡五十六か村、越前国敦賀郡五十九か村、近江国高島郡の十五か村、下野国安蘇郡の五か村、安房国平郡の十九か村でした(世界大百科事典)。若狭一国に、敦賀や遠く関東の飛び地が加わる形です。
藩主の下には城代・年寄・用人が置かれ、小浜と敦賀に町奉行、和田・熊川・佐柿に奉行、各郡に郡奉行と代官が置かれました。酒井家は入封のときに家臣へ土地を与える地方知行をやめて俸禄制に切り替えています。また京極氏の小浜城築城は約四十一年に及び、多くの農村の若者が駆り出され重い年貢も課されたため、二百五十三か村の住民が抗議に立ち上がったとされます(日本大百科全書)。
同じ時代の大きな出来事
幕末には幕府の命で沿岸の警備体制を整え、領内の各所に台場を設けました(世界大百科事典)。日本海に面した若狭も、異国船への備えと無縁ではありませんでした。
戊辰戦争での動き
鳥羽・伏見の戦いに敗れた小浜藩は、敗走のなかで山陰道鎮撫総督の西園寺公望に謝罪して降伏しました。その後は北陸道鎮撫使の先鋒として信越地方を転戦し、その功で明治二年(1869年)、藩主の酒井忠禄に賞典金二千両が与えられています(Wikipedia「酒井氏」)。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の十万三千五百石のこの藩はおよそ二千四百三十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「小浜藩」「酒井忠勝 (小浜藩主)」「酒井氏」、コトバンク「小浜藩」(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
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