越前勝山藩の歩み
越前勝山藩は元々福井藩の支藩だったが、元禄四年(1691年)、美濃国高須藩より「小笠原貞信」が二万二千石で入封し新たに勝山藩を立藩します。貞信は検地などを行なって藩政基盤を固めました。

幕末期には飢饉などの天災に見舞われて百姓一揆や打ちこわしが頻発し、藩財政を圧迫しました。しかし家老「林毛川」が藩政改革を行いどうにか乗り切りました。文久三年(1863年)には当主「小笠原長守」がオランダ式の軍制を採用して軍備を増強し、明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では早くから新政府軍に与して京都周辺の警備を担当しました。
明治二年(1869年)の「版籍奉還」で長守は勝山藩知事となり、明治四年(1871年)の「廃藩置県」によって勝山藩は勝山県となりました。さらに明治四年十一月二十日、勝山県は福井県と吸収されました。
越前勝山の小笠原家
越前勝山藩は、越前国大野郡(現在の福井県勝山市)に置かれた二万二千石の藩で、藩主は譜代の小笠原家でした。九頭竜川の上流、白山のふもとに広がる勝山の地を治め、北陸の山あいの要地を預かる藩でした。
オランダ式軍制での参戦
幕末の勝山藩は、いち早くオランダ式の西洋軍制を採用して軍備の近代化を進め、その装備をもって戊辰戦争に臨みました。小藩ながら軍制改革に熱心に取り組み、新式の軍隊として時代の戦いに加わったのです。西洋兵制の導入が諸藩に広がった、幕末の軍事変革の一例を示しています。
藩医の進言で開いた藩校、成器堂の藩です
読書堂から成器堂へ
『福井県史』によれば、勝山の藩校は藩医秦魯斎が藩主小笠原長貴に進言したことから始まります。天保十年に願い出て、天保十二年には資金の一部と書籍を献上し、同年九月に城外の追手筋へ「読書堂」を開設。天保十四年(1843年)五月に新しい校舎ができたのを機に「成器堂」と改称しました。学頭は秦魯斎です。
中身も具体的に残っています。毎朝卯の刻から巳の刻までの素読、月六回の講釈と会読、月二回の詩文会、剣術・槍術・習礼・医学の講釈。対象は八歳から十五歳で、藩士の子弟のほか商人や富農の子弟も入学を許され、幕末には寄宿生二十人・通学生百人を数えました。勝山市公式は「藩校として創設された成器堂は、現在の小学校にも名が伝えられています」と書いています。
勝山城の築城が認められた年
小笠原貞信が美濃高須から二万二千石あまりで移ったのは元禄四年(1691年)です。二代信辰のとき旧城の再興を願い出て城主格を許されましたが、城はすぐには完成しませんでした。Wikipediaは築城の許可を宝永五年(1708年)とし、七代長貴の代に完成したとしています。文政五年(1822年)には御殿から出火し、門・土蔵・高塀を残して焼けました。
長守は授爵していません
上の段の小笠原長守は天保五年(1834年)七月二十五日に生まれ、天保十一年五月に家督を継ぎました。Wikipediaによれば、上の段のオランダ式軍制の採用のほか、元治元年の大坂加番、慶応元年の京都守備を務めています。『福井県史』の年表にも「慶応三年四月、勝山藩、竹田街道を警固」とあります。
長守は明治六年(1873年)に隠居しており、明治十七年の華族令のときの当主ではありません。子爵となったのは長男の小笠原長育で、明治十七年七月八日のことでした。長守は明治二十四年(1891年)七月二十四日に亡くなっています。
藩政改革を主導した家老林毛川は、煙草改会所を設けて専売制を敷きましたが、領民の負担が大きく、長守によって解任・謹慎とされたとWikipediaは記しています。上の段の「どうにか乗り切った」改革には、そうした後日談がついています。
廃藩後は勝山県、福井県、足羽県、敦賀県、石川県と移り、明治十四年に再び置かれた福井県へ入りました(→福井藩)。
越前勝山藩をもっと詳しく
藩の成り立ち—「勝山」という地名と小笠原家以前
勝山の地は、中世には白山信仰の大寺院・平泉寺の支配する地域でした。天正二年(1574年)の越前一向一揆で平泉寺が焼かれ、一揆勢が拠点とした山を「勝山」と改めたのが、地名のはじまりと伝わります。天正八年(1580年)には柴田勝家の一族・柴田勝安が九頭竜川の東岸に城を移し、以後この地が勝山と呼ばれるようになりました。
江戸時代のはじめ、勝山は福井藩松平家の一族の領地となりました。結城秀康の子である松平直基、続いて松平直良が勝山を治め、直良は寛永十二年(1635年)に三万五千石で勝山に入り、正保元年(1644年)に越前大野へ移っています。その後の勝山は幕府領となり、元禄四年(1691年)の小笠原貞信の入封まで、およそ半世紀のあいだ大名のいない土地でした。
先祖の戦国武将—信濃の松尾小笠原家
勝山の小笠原家は、清和源氏の流れをくむ小笠原氏のうち、信濃国伊那郡の松尾城を本拠とした一族(松尾小笠原家)の系統です。その祖・小笠原信嶺(1547年〜1598年)は、はじめ武田信玄・勝頼に信濃先方衆として仕え、天正三年(1575年)の長篠の戦いにも武田方として加わりました。天正十年(1582年)の甲州征伐で織田方に降り、本能寺の変のあとは徳川家康に属して、天正十八年(1590年)の家康の関東入りのあと武蔵本庄(いまの埼玉県本庄市)で一万石を与えられています。
信嶺の家は養子の小笠原信之が継ぎ、その子・政信が下総関宿の藩主となりました。勝山藩の初代・小笠原貞信は、旗本高木貞勝の長男として美濃国石津郡多羅に生まれ、母が信之の娘であった縁で政信の婿養子となった人です。寛永十七年(1640年)、十歳ほどで関宿藩を継ぐとすぐに美濃高須へ移され、元禄四年(1691年)に勝山へ移りました。相次ぐ転封や大坂加番の出費で、勝山入りのころから藩の財政は苦しかったとされます。
領地のようす
藩の領地は越前国大野郡を中心とし、石高は二万二千石余り(二万二千七百石とする資料もあります)でした。九頭竜川の上流、白山のふもとの山がちな土地で、田畑からの年貢には限りがありました。幕末には煙草・生糸・藍などを藩の専売品とし、煙草改会所を置いて収入を増やそうとしています。藩の歴史を通じて、年貢をめぐる越訴(えっそ、藩を飛び越えて訴えること)や打ちこわしが何度も起きたと記録されています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万二千石のこの藩はおよそ五百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:コトバンク「勝山藩」、Wikipedia「小笠原貞信」「小笠原信嶺」「松平直良」

