高森藩の歩み
元禄十年(1697年)四月十一日、紀州藩主「徳川光貞」の三男の「松平頼職」が三万石を与えられて高森藩が立藩されました。しかし宝永二年(1705年)五月、本家を継いだ「徳川綱教」が嗣子なく死去したため、頼職が紀州藩の家督を継ぐこととなり、高森藩はいったん廃藩となりました。同じ年の十月、遠州浜松藩主「松平資俊」の子(三男とも次男ともされます)「松平宗長」に、高森の二万石が新たに与えられて藩が再び立てられました。
宝永六年(1709年)十一月に宗長が亡くなり、弟で養子の「松平宗胡」が跡を継いだが、正徳元年(1711年)十一月に嗣子なく死去して無嗣断絶し高森藩は廃藩となりました。
徳川吉宗の兄の藩でした。そして吉宗の藩は、その隣にありました
まず所在地から整理します。高森藩の陣屋は越前国丹生郡高森村、いまの福井県越前市高森町に置かれました。紀州藩からの分知ですが、領地は紀伊ではなく越前です。
そしてここが大事なところです。高森藩と葛野藩は別の藩でした。元禄十年(1697年)四月十一日、紀州藩主徳川光貞の三男頼職に丹生郡内六十三か村で三万石、四男の頼方に丹生郡と坂井郡の四十五か村で三万石が、同じ日に与えられています。兄が高森藩、弟が葛野藩です。そしてこの弟の頼方こそ、のちの八代将軍徳川吉宗でした。両藩とも紀州から送られた十四人ずつの家臣が領地を管理する形をとりました。
本記事の説明では宝永二年(1705年)に一万石が頼方に与えられたとしていますが、この一万石の行方は資料が分かれます。『角川日本地名大辞典』は葛野藩に加増されて四万石になったとし、『福井県史』は幕府領のままだったとします。諸説あり、と申し上げておきます。いずれにせよ頼方は同じ年の十月に紀州本家を継ぎ、葛野藩も消えました。
高森の陣屋は藩が消えたあとも残り、近隣の幕府領を治める高森代官所となります。享保五年(1720年)、越前の幕府領がまとめて福井藩の預りとされた際に、代官所は廃されました。
では幕末の高森村は誰の領地だったか。福井藩でも鯖江藩でも天領でもありません。明和元年(1764年)、三河西尾藩の松平乗祐が大坂城代となった際、不足する分を補うために越前の幕府領七十二か村が飛地として充てられました。高森村はこのとき西尾藩領となり、そのまま幕末まで続きます。『旧高旧領取調帳』にもとづく調査でも、丹生郡高森は西尾藩領、二百六十石余と記録されています。飛地の統治拠点は天王陣屋で、その跡地はいま公民館「陣屋の里」となり、碑が建っています。
幕末の越前に目を移すと、福井藩の松平春嶽が安政の大獄で隠居謹慎に追い込まれました。いっぽう、その大獄を京都で執行した老中間部詮勝は、隣の鯖江藩の藩主です。処罰した側とされた側が、同じ越前の隣り合う藩主だったことになります。その詮勝も文久二年(1862年)に一万石を減らされ、隠居させられました。
四か月だけの紀州藩主—松平頼職
高森藩を開いた松平頼職(よりもと)の運命は、宝永二年(1705)の一年で大きく変わりました。この年の五月、紀州藩を継いでいた長兄の徳川綱教が跡継ぎのないまま亡くなり、頼職が紀州五十五万石の藩主となります。ところが八月には父の光貞が、そして九月には頼職自身が病で世を去りました。藩主になってわずか四か月ほどのことでした。
こうして紀州藩を継いだのが、頼職の弟で、隣の葛野藩主だった頼方、のちの徳川吉宗です(葛野藩)。兄たちが相次いで亡くならなければ、四男の吉宗が紀州藩主となり、さらに八代将軍になることはありませんでした。高森と葛野という越前の二つの小藩は、将軍家の行方を変えた一年の舞台となったのです。
高森を継いだ本庄松平家と桂昌院
頼職のあとの高森藩を継いだ松平宗長は、遠江浜松藩主・松平資俊の次男で、本庄松平家の出身です。本庄家は、五代将軍綱吉の母・桂昌院の実家で、綱吉の時代に一族が次々と大名に取り立てられました(岩滝藩)。資俊の家は、のちに丹後の宮津藩主となり、幕末には老中・松平宗秀を出しています。宗秀は兵庫開港をめぐる幕府の交渉にかかわった人物です。紀州家から出た藩を、将軍の母の家が受け継ぎ、その家が幕末の外交の中枢にいたことになります。
吉宗の兄が受けた三万石—越前高森藩の二つの時代
綱吉の訪問で生まれた二つの藩
元禄十年(1697年)四月十一日、将軍綱吉が紀州藩邸を訪れ、紀州藩主・徳川光貞の子の頼職(十八歳)と頼方(十四歳、のちの吉宗)に、それぞれ越前で三万石が与えられました。頼職の領地が丹生郡六十三か村の高森藩、頼方の領地が葛野藩です。高森藩の領地は北山組・平井組・樫津組の三組に分けられ、それぞれに大庄屋が置かれました。
早馬で帰った紀州藩主
宝永二年(1705年)、頼職は兄の死で紀州藩主を継ぎ、高森藩はいったん廃藩となりました。ところが同じ年、父の光貞が危篤になり、頼職は江戸から早馬で和歌山へ急ぎ帰ります。その無理がたたって、九月八日に二十六歳で病死しました。紀州藩では同じ年に三回葬儀が続き、財政悪化に拍車がかかります。そして頼職のあとを継いだのが弟の頼方、のちの八代将軍吉宗でした。
桂昌院の遺言で生まれた二度目の高森藩
宝永二年十月、浜松藩主の子・松平宗長に高森の二万石が新たに与えられ、高森陣屋を引き継ぎました。この二万石は、同じ年に亡くなった綱吉の生母・桂昌院の遺言によるものとされます。宗長は江戸に住む定府で、一度も領地に入らず、宝永六年に二十三歳で亡くなりました。跡を継いだ弟の宗胡も八歳で亡くなり、藩は終わります。
水の乏しい村
高森村は鬼ヶ岳の東の麓、扇状地の真ん中にある水の乏しい土地で、村高二百六十石余のうち約百八十石が不作になりやすい畑でした。宝永元年には大庄屋が新田開発を引き受けましたが、資金不足と廃藩で失敗しています。将軍の兄の領地、将軍の生母の遺言で生まれた藩。高森は、江戸の大きな家の事情で何度も持ち主が変わった土地でした。



