大野藩の歩み
大野城は天正三年(1575年)、織田信長の家臣「金森長近」によって築城されました。長近が飛騨高山に移封された後、大野城には「青木秀以」らが入り、のちに織田信長の孫「織田秀雄」が城主となりました。

その後は徳川幕府で大老を務めた「土井利勝」の四男「土井利房」が下野国内から入封します。江戸後期の大野藩は、西洋の先進技術の研究・摂取に熱心な藩でした。藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳し、藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら最先端の西洋学問を学びました。
文久二年(1862年)に「土井利忠」が病で隠退した後はその三男「土井利恒」が藩主となります。慶応元年(1865年)十一月十八日、利恒は京都嵯峨及び太秦の警衛を命じられました。「戊辰戦争」が勃発すると大野藩は新政府軍に恭順し、明治元年(1868年)四月十二日、箱館裁判所副総督に任命され、大野藩兵166名を箱館戦争に参加させています。
利恒は明治二年(1869年)の「版籍奉還」で大野藩知事となり、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で大野藩は廃藩となって大野県となります。
四万石の藩が、大坂に店を出し、自前の船で樺太へ行きました
改革の年表を並べると
越前大野藩が「早くから西洋学を採り入れた」と言われる中身は、前藩主土井利忠(としただ)の改革です。大野市公式の「大野の歴史年表(近世)」をそのまま並べると、その速さが分かります。
天保十三年(1842年)改革開始。天保十四年(1843年)藩校創設。弘化二年(1845年)洋医学と西洋砲術を採用し、洋式大砲を鋳造。嘉永四年(1851年)種痘施術所を開設。安政二年(1855年)大坂北久太郎町に「大野屋」を開店。安政三年(1856年)洋学館を開設。安政四年(1857年)病院「済生館」を開設。安政五年(1858年)洋式帆船「大野丸」が竣工。
十六年のあいだに、学校、大砲、種痘、商店、洋学館、病院、洋式船。四万石の藩がやることとしては、ほとんど一つの国の近代化計画です。
藩が店を出していました
このなかで目を引くのが「大野屋」です。藩が経営する商店で、安政二年に大坂北久太郎町に開店しました。事典は「各地に設け」「全国各地に」と書き、日本人名大辞典は「箱館・大坂など」としています。店の数は公式資料にはありません。藩が自分で店を構えて商いをしたわけです。
大野丸は、樺太に拠点を作り、根室沖で沈みました
そして大野丸です。安政五年に竣工した藩所有の洋式帆船で、大野市の年表によれば安政六年(1859年)に奥尻島で米国の難破船を救助しています。同じ年、藩は北蝦夷地(樺太)に根拠地を設置し、万延元年(1860年)に北蝦夷地が準領地となりました。事典は「幕府の許可を得て同地を準領地」と書いています。
海を持たない四万石の藩が、樺太に拠点を持っていた。しかし元治元年(1864年)、大野丸は根室沖で沈没します。そして明治二年(1869年)に北蝦夷地を新政府に上地しました。船が沈んで五年後に、樺太を手放したことになります。
利忠は文化八年(1811年)四月三日生まれ、明治元年十二月三日没、五十八歳。明治元年十二月三日は西暦では1869年一月にあたります。改革を始めた藩主は、維新の年の暮れに亡くなりました。
跡を継いだ利恒は、箱館へ兵を出しました
当ページの藩主土井利恒(としつね)は嘉永元年(1848年)七月十九日生まれ、文久二年(1862年)に家督を継ぎました。日本人名大辞典によれば、明治元年に新政府の指示で箱館戦争に出兵しています。前藩主の代に船で通った北の海へ、今度は兵を送ったわけです。子爵となり、明治二十六年三月二十九日に四十六歳で没しました。
藩校の名前は明倫館で、大野市は安政三年の施設を「洋学館」、事典は「蘭学館」と書いています。
天空の城は、昭和の天守です
越前大野城は金森長近の築城で、天正三年(1575年)に大野郡平定を命じられ、天正十四年(1586年)の転封前に築きました。安永四年(1775年)に本丸が焼失し、幕末の大野城に天守はありません。いまの天守は昭和四十三年(1968年)の再建で、望楼付き二層三階の大天守、二層二階の小天守と天狗櫓からなります。石垣が福井県指定文化財、続日本100名城に選定されています(大野市公式)。
そしてよく知られた「天空の城」について、大野市が運営する公式サイトは「この城下町が雲海に包まれ亀山だけが浮かんで見える日に『天空の城 越前大野城』が現れます」と書いています。見られるのは十月から四月末頃、最も出やすいのは十一月。観察場所は標高三百二十四メートルの戌山城址です。
城下の湧水御清水(おしょうず)は「お殿様のご用水」で「殿様清水」とも呼ばれた、と大野市公式にあります。名産の上庄さといもは平成二十九年十一月十日に地理的表示に登録されていますが、栽培の起源年代は確認できず、幕末との関係もありません。
廃藩置県後の越前は県が目まぐるしく変わりました。明治四年に大野県→福井県→足羽県、明治六年一月に敦賀県に合併、明治九年八月に敦賀県が廃止されて嶺北は石川県へ、そして明治十四年(1881年)二月七日に福井県が設置されています(図説福井県史)。→ 福井藩・小浜藩・明石藩
大野藩をもっと詳しく
藩の成り立ち—越前松平家の時代
土井家が入る前の大野は、およそ六十年にわたって越前松平家の一族が治めていました。寛永元年(1624年)、福井藩主の一族である結城秀康の子・松平直政が大野に入り、大野藩が始まります。その後は直政の弟の松平直基、さらにその弟の松平直良と、秀康の子の兄弟が転封によって相次いで大野を治めました。直良は正保元年(1644年)に越前勝山から五万石で大野へ移っています。この越前松平家の大野時代は、直良の家が天和二年(1682年)に大野を離れたことで終わりました。
同じ天和二年、土井利房が四万石で大野に入り、以後廃藩置県まで約百九十年、土井家の譜代大名の藩が続きます。利房は大老土井利勝の子で、奏者番・若年寄を経て老中にまで進みました。はじめ一万石から始まり、加増を重ねて四万石となった人で、利勝の子の中でもっとも出世したとされます。
先祖の戦国武将—土井利勝
土井家の基を築いた土井利勝(1573年〜1644年)は、二代将軍徳川秀忠の側近として幕府の土台づくりを支えた人物です。公式の系図では、徳川家康の母方の伯父にあたる水野信元の子とされ、信元が殺されたあと、家康のはからいで土井利昌の養子になったと伝わります。一方で、幼いころから家康の鷹狩りへの同行を許されるなど特別に目をかけられたことから、家康の実の子だとする説(落胤説)も、いくつもの史料に見えます。
利勝は慶長七年(1602年)に下総小見川一万石の大名となり、慶長十五年(1610年)に下総佐倉三万二千石に移りました。のちに堀田家の居城となる佐倉城を築いたのは、この時期の利勝です。寛永十年(1633年)には下総古河十六万二千石に移り、寛永十五年(1638年)に大老となりました。
本家と分家・親戚の家
利勝の家督は嫡男の土井利隆が継ぎ、古河の土井家が本家となりました。大野藩の土井家は、利勝の子・利房にはじまる分家です。本家の土井家はその後転封を経て、幕末には再び下総古河藩の藩主として続いていました。
領地のようす
大野藩の領地は越前国大野郡を中心とする山あいの盆地で、城は亀山と呼ばれる小高い山の上に築かれました(大野城は亀山城とも呼ばれます)。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、四万石のこの藩はおよそ九百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお本文にあるとおり、箱館戦争へ実際に送った藩兵は百六十六名でした。
参考:Wikipedia「大野藩」「土井利房」「土井利勝」「松平直良」
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あわせて読みたい(現地取材)
この藩が持っていた艦船
大野藩の艦船として当サイトで扱っているのは一隻です。
- 大野丸/スクーナー船
幕末の艦船を二十八の勢力に分けて並べると、そのうち十四は一隻しか名前が残っていません。蒸気船は買うだけでなく、燃料を手配し、機関を扱える者を育て、修理の場所まで用意しなければ動きません。一隻を持つことさえ重い買い物でした。



