【藩名】
糸魚川藩
【説明】
第7代藩「松平直廉」は「安政の大獄」で家督を追われた「松平慶永」に代わって越前松平家(宗家)を継ぐこととなります。このため、糸魚川藩には播磨明石藩から「松平直静」が第6代藩主「松平直春」の養嗣子となって家督を継ぎました。
明治2年(1869年)の「版籍奉還」にて直静は清崎藩知事となります。同年8月、糸魚川藩は正式に清崎藩と改められたが、同年は「巳年の困窮」とまで言われた不作により林騒動や二歩金騒動が起こりました。明治4年(1871年)の「廃藩置県」で清崎藩は清崎県となりました。
本家・福井藩との関係
糸魚川藩は、越後にあった越前福井藩(松平家)の支藩です。越前松平家の分家が一万石を領しました。
親藩の名門・越前松平家に連なる小藩で、幕末には藩主・松平直静が藩を治めました。宗家の福井藩は、四賢侯の一人・松平春嶽を擁して幕末政局で重きをなした藩です。糸魚川藩も、その越前松平一門の一翼を担いました。
【この藩の殿様が、越前三十二万石を継ぎました】
第七代松平直廉のその後を追うと、幕末の大きな流れに直接つながります。安政五年(1858年)七月五日、安政の大獄で松平慶永が隠居謹慎となった福井藩松平家の家督を、直廉が相続しました。同年十月には将軍家茂から偏諱を受けて松平茂昭と改名します。ただし福井では隠居した慶永と改革派の家老・藩士が実権を握り、茂昭には実権がほとんどなく、傀儡の当主という立場でした。一万石の糸魚川から三十二万石の福井へ移って、実権はなかったわけです。
入れ替わりに糸魚川へ来たのが松平直静です。弘化五年(1848年)に播磨明石藩主松平斉韶の七男として生まれ、安政五年十月二十六日、すでに隠居していた第六代松平直春の婿養子として家督を継ぎました。若年のため藩政は直春が担い、直静自身が表立って動くことはあまりなかったといいます。
この藩の形も押さえておきたいところです。藩主は江戸に定府し、糸魚川には陣屋を置いて郡代・代官が治めていました。直静が実際に糸魚川へ入ったのは、明治二年(1869年)六月の版籍奉還のあとです。同年八月に藩名は清崎藩と改められました。明治二年は困窮がひどく、林騒動・二歩金騒動が起きています。なお戊辰戦争での糸魚川藩の動きについては、確認できる資料を見つけられませんでした。
清崎城は慶長六年(1601年)に堀秀治が築いた城ですが、延宝九年(1681年)の松平光長改易にともなって幕府が接収し、廃城となりました。幕末にはもう城はありません。跡は糸魚川市役所の一帯とされ、清崎神社と天津神社の周りの池が水堀の名残と伝わります。
幕末の糸魚川で見ておきたいのは、道です。北陸道と、松本へ抜ける千国街道、いわゆる「塩の道」の交わる宿場町でした。糸魚川から松本までおよそ百二十キロ、牛と、荷を背負う「歩荷」によって海産物が運ばれ、沿道には牛方宿や牛つなぎ岩が残ります。松本藩は千国の番所で「運上塩」という通行税を取りました。「敵に塩を送る」の故事にちなむ「上杉の義塩」も、この道を通ったとされます。
【場所・アクセス・地図】

