丸岡藩の歩み
丸岡城は戦国時代には「織田信長」の武将「柴田勝家」の養子「柴田勝豊」が治めていました。元禄八年(1695年)に譜代大名の本多家が幕命により改易されると、代わって戦国時代にキリシタン大名で有名だった「有馬晴信」の曾孫「有馬清純」が越後糸魚川藩から五万石で入封します。

第2代藩主「有馬一準」の時代になると外様大名から譜代大名へ格上げされました。慶応四年(1868年)には新政府にいち早く恭順したため家名を保ちました。明治二年(1869年)六月、幕末の当主「有馬道純」は「版籍奉還」により丸岡藩知事となり、明治四年(1871年)九月の「廃藩置県」により丸岡藩は廃藩となりました。
現存天守の残る丸岡城
丸岡藩は、越前国(現在の福井県坂井市)に置かれた五万石の藩で、藩主は有馬家でした。居城の丸岡城は、現存する数少ない古い天守の一つとして知られ、素朴で力強い姿を今に伝えています。北陸の要地を治める、由緒ある藩でした。
いち早い恭順
幕末の丸岡藩は、戊辰戦争にあたっていち早く新政府軍への恭順を選び、家名を保ちました。北陸の諸藩が去就に揺れるなか、時流を的確に読んで無用な戦火を避けた、堅実な判断がうかがえます。
五万石から老中が出た—有馬道純
丸岡藩の幕末は、最後の藩主有馬道純(みちずみ)に集約されます。五万石の藩主でありながら、幕府の老中にまで昇った人です。
その足取りは福井県の年表で日付まで追えます。文久三年(1863)正月に若年寄、二月に外国掛、そして七月五日に老中。元治元年(1864)四月十二日に罷免されるまで、在任はおよそ九か月でした。
短いけれども、時期が重要です。攘夷の実行をめぐって幕府が朝廷と諸藩の板ばさみになり、横浜の鎖港談判が最も紛糾していたころにあたります。道純はそのあいだ外国御用取扱を兼ねていました。つまり、鎖港を迫られながら外交の実務を預かるという、いちばん割の合わない持ち場に立っていたことになります。なお大政奉還や王政復古のときには、すでに老中ではありません。
有馬家の出自は肥前有馬氏で、キリシタン大名として知られる有馬晴信の系統です。久留米の有馬家とは別系統になります。元禄八年(1695)、越後糸魚川から丸岡五万石へ入り、以後八代で廃藩を迎えました。
年表で見る、幕末の丸岡藩
老中を出した藩ですから、動員の記録も濃密です。元治元年四月に京都伏見の稲荷山と黒門口の警衛、六月には江戸麻布善福寺のフランス公使館の警衛。十一月には第一次長州征伐にからんで藩兵が出雲まで進み、慶応元年正月に丸岡へ帰りました。
慶応元年十一月には兵庫の取締を命じられ、翌年五月には兵庫の百姓一揆の鎮圧にあたっています。同じ慶応二年十一月、藩は西洋流の銃隊を採用しました。
慶応四年、道純は朝廷に恭順します。明治元年十一月には、鯖江・勝山とともに小浜藩と交代して敦賀港の警備を命じられました。北越戦争への出兵は、県の年表では確認できません。
「現存最古」ではなくなった丸岡城
丸岡城は現存十二天守のひとつで、重要文化財です。長らく天正四年(1576)の築とされ、日本最古の現存天守と呼ばれてきました。
ところが平成三十一年(2019)三月、坂井市の調査研究委員会が年輪年代・放射性炭素・酸素同位体比の三つの手法で調べた結果、用材の多くは1620年代後半以降に伐られたものと判明します。建築は寛永年間、寛永五年(1628)ごろとされました。半世紀ほど新しくなり、最古の座は失われたことになります。
もうひとつ知っておきたいのは、いま建つ天守が一度倒れていることです。昭和二十三年(1948)の福井地震で天守は倒壊し、昭和三十年に倒壊した部材の七割から八割を再び用いて組み直されました。柱も梁も古いけれども、建物としては戦後に立て直されたものです。
藩校は平章館。五代の有馬誉純が設けました。道純は明治二年に丸岡藩知事となり、明治四年に免官されて東京へ移り、明治十七年に子爵を授かっています。
城のほうは別ページに
丸岡城そのもの—日本で唯一の石瓦葺きの屋根、「現存最古」という肩書きが書き換えられた調査、そして福井地震で全壊してから組み直された経緯については、丸岡城のページにまとめました。
丸岡藩をもっと詳しく
藩の成り立ち:福井藩の家老から大名へ
丸岡藩は、もともと福井藩の中の城でした。慶長十八年(1613年)、本多成重が福井藩の付家老(幕府から大名家につけられた重臣)として丸岡城に入ります。元和九年(1623年)に福井藩主の松平忠直が改易されると、翌寛永元年(1624年)、成重は四万六千石の大名として独立を認められ、譜代大名に取り立てられました。これが丸岡藩の始まりです。
本多家と「一筆啓上」
成重の父は、家康の家臣として「鬼作左」の名で知られた本多重次(作左衛門)です。天正三年(1575年)、長篠の戦いの陣中から重次が妻にあてて書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短い手紙は、日本一短い手紙として有名で、文中の「お仙」は幼いころの成重(仙千代)のことと伝わります。いま丸岡城にはこの手紙の碑が建っています。
本多家は四代続きましたが、四代の本多重益は酒色におぼれ、お家騒動も起こったため、元禄八年(1695年)に改易されました。
有馬家の先祖:キリシタン大名・有馬晴信
本多家のあとに入った有馬家は、肥前島原半島の日野江城を本拠としたキリシタン大名・有馬晴信の家です。晴信は慶長十七年(1612年)の岡本大八事件にかかわって甲斐に流され、その地で命を落としました。子の直純が家を継ぎ、日向の県(いまの宮崎県延岡市)へ移って延岡藩主となります。その後、元禄四年(1691年)、凶作のなか年貢を厳しく取り立てたことで農民が村を捨てて逃げ出す「逃散」が起き、その責任を問われた有馬清純は三千石を減らされて越後糸魚川へ移されました。そしてわずか四年後、丸岡へ五万石で移ってきたのです。九州・越後・越前と移りながら、家は幕末まで続きました。
領地のようす
丸岡藩の領地は、ほとんどが坂井平野の中にあり、坂井郡の七十四か村が中心でした。このほか南条郡に二か村、吉田郡に一か村の飛び地がありました。いまの福井県坂井市丸岡町を中心とする地域です。
藩政と一揆
五代藩主の有馬誉純は、安永元年(1772年)から五十年ほどという長いあいだ藩主を務め、奏者番、寺社奉行、西の丸若年寄と幕府の役職を重ねながら、藩政の立て直しや藩史の編さんにも取り組みました。それでも藩の財政は豊かではなく、享保九年(1724年)、安永八年(1779年)、慶応二年(1866年)と三度の百姓一揆が起こっています。安政五年(1858年)には地震で城が大きく壊れました。
藩の終わり
明治四年(1871年)の廃藩置県のあと、この地は丸岡県・福井県・敦賀県・石川県とめまぐるしく所属を変え、明治十四年(1881年)に置き直された福井県に入りました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万石のこの藩はおよそ千百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「丸岡藩」、コトバンク「丸岡藩」「有馬氏」、福井県「戦国秘話」資料など



