福島県庁のすぐ隣、阿武隈川に面した紅葉山公園(もみじやまこうえん)の一帯が、かつての福島城の跡です。天守を持たない平城でしたが、幕末までの約167年間を板倉家三万石が治めた城下町の中心であり、慶応四年(1868)には、東北を戊辰戦争へと突き落とす引き金となった世良修蔵(せらしゅうぞう)暗殺事件の舞台にもなった土地です。現地の案内板をたどりながら、この城の来歴を幕末までじっくり歩いてみます。

城の名は幾度も変わった ― 杉妻城・大仏城・杉目城
案内板によれば、この地には古く平安時代末期、信夫(しのぶ)の地を治めた信夫庄司佐藤氏一族の杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)が居城した杉妻城(すぎのめじょう)があったと伝わります。城は「大仏城(だいぶつじょう)」または「杉目城」とも呼ばれました。
筆者が「伊達政宗の時代は別の城名だったのでは」と記憶していた通りで、室町時代から戦国時代にかけては、この城は伊達氏の本城・支城として「大仏城」「杉妻城」と称されていました。応永二十年(1413)には、関東公方・足利持氏にそむいた伊達持宗(もちむね)が大仏城に立てこもったという記録も残ります。つまり信達地方は代々伊達氏の勢力圏で、独眼竜・伊達政宗の時代もこの一帯は伊達領。「福島城」という名になるのは、伊達氏が去ったあとのことです。(※政宗個人がこの城を居城としたと断定できる史料は乏しく、あくまで伊達氏の城の一つ、という位置づけが正確です。)

「福島」の誕生 ― 蒲生、そして上杉の時代
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏は移封となります。代わって文禄元年(1592)ごろ、蒲生氏郷の家臣・木村吉清(きむらよしきよ)が大森城からこの城へ移り、「福島城」と改称しました。今の県都「福島」の名は、ここに始まります。
慶長三年(1598)からは上杉景勝の時代。会津百二十万石の大領のなかで、福島城には水原親憲(みずはらちかのり)・本庄繁長(ほんじょうしげなが)といった上杉の名だたる武将が城代として詰めました。上杉氏はのちに米沢へ減封されますが、福島の地は寛文四年(1664)まで上杉領として続きます。米沢の上杉と福島は、この時期ひと続きの領国だったのです。
江戸中期 ― 本多・堀田を経て、板倉家三万石へ
延宝七年(1679)、本多忠国が入って独立した「福島藩」が成立。貞享三年(1686)には堀田正仲が城主となりますが、いずれも短期間で領主が替わりました。
この地に腰を据えたのが板倉家です。元禄十五年(1702)十二月、信濃国坂木(さかき)から板倉重寛(しげひろ)が移封され、以後 明治二年(1869)まで、じつに167年・12代にわたって板倉氏が福島藩三万石を治めました。領地は信夫郡23か村・伊達郡8か村に加え、上総(千葉県)と三河(愛知県)にも分領を持っていました。板倉家の長い支配のもとで、現在の福島の町の骨格となる城下町の町割りが完成します。
板倉時代の福島城は天守を持たない平城で、石垣は大手門付近にのみ築かれ、本丸・二の丸・三の丸を堀と土塁が囲んでいました。二の丸には殿中の御庭があり、それが現在の紅葉山公園です。

案内板が伝えるこの二の丸御外庭(おそとにわ)の逸話がおもしろいところで、庭の池は「三河国八ツ橋(愛知県知立市)のかきつばたの名所をまねてつくった」と言われています。板倉家が三河に分領を持っていたことと、この庭の風景は、しっかり結びついているわけです。
板倉家という一族 ― 島原の乱の重昌、そして老中・板倉勝静

城跡に建つ板倉神社には、福島板倉家の藩祖・板倉重昌(しげまさ/1588-1638)と、その子重矩(しげのり/1617-1673)の父子がまつられています。重昌は、島原の乱で幕府軍の総大将をつとめ、寛永十五年(1638)の総攻撃で討死した人物。遺志を継いだ子・重矩の働きが幕府軍の勝利に大きく貢献した、と案内板は伝えます。板倉神社は「勝負運の神様」として、いまも受験生の信仰を集めています。
さて、筆者が「唐津の板倉かつきよとも関連する家だったのでは」と考えていた件を、正直に整理しておきます。幕末の名老中に板倉勝静(いたくらかつきよ/1823-1889)という人がいます。ただし勝静が藩主だったのは唐津ではなく備中松山藩(岡山県高梁市)で、彼は幕府の老中首座をつとめ、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の参謀として箱館まで戦い抜いた人物です。実父は白河藩主・松平定永(松平定信の子)でした。
この板倉勝静と、福島の板倉家は「同族」です。ともに徳川家康の名臣・板倉勝重を共通の祖とする一族で、福島板倉家は勝重の子・重昌の系統(重昌流)、勝静の備中松山板倉家は勝重の嫡流である宗家筋にあたります。筆者の記憶は「板倉勝静=幕末の老中で福島板倉家とつながる家」という点で正しく、ただ勝静の藩は唐津ではなく備中松山、という一点だけ補足になります。(※幕末の唐津藩で老中をつとめたのは板倉ではなく小笠原長行で、こちらは別の家系です。)
幕末の惨劇 ― 金沢屋、世良修蔵暗殺
そして幕末。今回は現地を訪ねられませんでしたが、あわせて触れておきたいのが世良修蔵の事件です。世良は長州出身で、戊辰戦争の初め、新政府が奥羽に置いた奥羽鎮撫総督府の下参謀(したさんぼう)という要職にありました。彼は会津藩の徹底討伐を強硬に主張し、会津の助命嘆願に動く仙台・米沢など東北諸藩と激しく対立します。
決定的だったのは、世良が同僚の大山格之助に宛てて書いた密書でした。そこには「奥羽皆敵ト見テ(奥羽をみな敵とみなして逆撃する)」という趣旨の一文があり、これを察知した仙台藩士たちが激怒します。
慶応四年(1868)閏四月二十日の未明、世良が投宿していた福島城下の旅籠「金沢屋(かなざわや)」を、仙台藩士・福島藩士ら24〜25名が襲撃。就寝中を襲われた世良は二階から飛び降りて重傷を負ったところを捕縛され、同じ日の朝、阿武隈川の河原で斬首されました。実行の中心は仙台藩士・姉歯武之進(あねはたけのしん)らでした。
この一件が、東北の運命を決めます。世良の死によって会津藩の助命嘆願は撤回され、まもなく仙台・米沢を盟主とする「奥羽越列藩同盟」が結成されて、東北は本格的な戊辰戦争へとなだれ込んでいきました。福島城下のこの惨劇は、まさにその分岐点だったのです。世良修蔵の墓は、いまも市内の福島稲荷神社にあります。
戊辰のあと ― 板倉福島藩の恭順、そして河野広中
福島藩板倉家も奥羽越列藩同盟に加わりましたが、三万石の小藩に大勢を覆す力はなく、やがて新政府軍に降伏・恭順します。明治二年(1869)、最後の藩主で板倉家の支配は幕を閉じ、167年の城下町の歴史も静かに終わりました。

その紅葉山公園に、大きく右手を掲げた銅像が立っています。河野広中(こうのひろなか/1849-1923)です。河野は三春藩の出身で、戊辰戦争のさなか三春藩を新政府側へ導く動きに加わった一人。維新後は自由民権運動の中心人物となり、明治十五年(1882)の福島事件で県令・三島通庸と対決し、のちには衆議院議長にまでのぼりつめました。幕末に藩の進路を選んだ若者が、明治の世で「自由民権」を叫ぶ人物へと育っていく――その転換を、この城跡の像は静かに物語っています。
城跡の今 ― 紅葉山公園と「福島城址」の碑
本丸の跡地は現在、福島県庁のあたりにあたります。天守はもともと無く、遺構としては紅葉山公園と西門南側の土塁が、わずかに城の面影を伝えるのみ。県庁前には「福島城址」と刻まれた大きな自然石の碑が建っています。派手な天守や石垣を期待して行くと拍子抜けするかもしれませんが、案内板を一枚ずつ読み、阿武隈川の流れを眺めながら歩くと、伊達・蒲生・上杉・板倉と続いた七百年の重なりと、幕末のあの夜の緊張が、じわりと立ちのぼってくる場所でした。

場所・アクセス・地図
福島城跡(紅葉山公園・福島県庁一帯) 所在地:福島県福島市杉妻町。JR福島駅から徒歩約15分、または福島交通のバスで県庁前下車すぐ。

