日光の北、鬼怒川が深い谷を刻む会津西街道。いまは鬼怒川温泉や川治温泉で知られるこの谷で、慶応4年(1868)6月、二日つづけて戦いがありました。
一日目は、最新の武器をそろえた佐賀藩の兵が、旧幕府軍を谷の奥へ押しこみます。ところが二日目、大鳥圭介の伝習隊が待ち伏せで佐賀藩・宇都宮藩の兵を打ち破り、大砲や銃をたくさん奪いました。これが「藤原の戦い」(鬼怒川渓谷の戦い)です。この記事では、谷あいの二日間を進軍図とイラストで解説します。

藤原の戦いとは?ひとことで言うと
会津への入口・会津西街道の谷に陣を構えた大鳥圭介の旧幕府軍を、佐賀藩・宇都宮藩の新政府軍が攻めた二日間の戦いです。一日目は新政府軍が勝ち、二日目は旧幕府軍が大勝しました。この勝利で、日光口の戦線は動かなくなります。
| 日時 | 慶応4年6月25日〜26日(1868年8月13日〜14日) |
|---|---|
| 場所 | 下野国の会津西街道、高徳・大原・小原沢・藤原と、鬼怒川対岸の小佐越・滝村(現在の栃木県日光市の鬼怒川温泉〜藤原のあたり) |
| 旧幕府軍 | 大鳥圭介の伝習第二大隊・第三大隊、草風隊、回天隊、別伝習隊など。会津藩の山川大蔵も副総督として加わる |
| 新政府軍 | 佐賀藩の鍋島監物隊・鍋島鷹之助隊(各10小隊)、宇都宮藩の4小隊など |
| 損害(26日) | 旧幕府軍の戦死は草風隊長の村上求馬ら3人。新政府軍は佐賀藩の小隊長・嬉野弥平次ら戦死10人あまり、負傷20人近く。大砲や小銃も多く奪われた |
| 結果 | 25日は新政府軍の勝ち、26日は旧幕府軍の大勝。こののち日光口では大きな攻勢はなくなった |
なぜ鬼怒川の谷で戦いが起きたのか
今市で二度敗れた大鳥圭介
宇都宮城を失った大鳥圭介は、会津へ退いて兵を立て直し、会津藩と手を組んで南の今市を二度攻めました。しかし閏4月21日と5月6日、板垣退助の土佐藩兵にどちらも退けられます(今市の戦い)。死傷者は合わせて120人を超え、伝習第二大隊は8小隊から4小隊に縮みました。
大鳥は今市をあきらめ、会津西街道の谷にある高徳・大原・藤原の宿場に陣を構えて、守りに徹することにします。谷は狭く、両側を山と鬼怒川の崖にはさまれていて、攻めるに難しく守るに易い地形でした。白河口で奥羽越列藩同盟の軍が巻き返すのを、ここで待とうという作戦です(大鳥圭介)。

山の中の苦しい暮らし
谷の暮らしは苦しいものでした。米や味噌は会津の田島から馬で運ばれてきましたが、おかずになるものはほとんど手に入りません。兵たちは鬼怒川で魚を釣り、きのこを採り、ついにはカエルまで食べたと記録にあります。伝習隊の歩兵頭・沼間守一も大鳥と意見が合わずに会津へ去りました(沼間守一)。ただ、沼間は去る前に大原などに胸壁(土を盛った陣地)を築いており、これがのちの戦いで役に立ちます。
6月はじめには江戸から新しい銃や夏服が届き、その中には元込め銃(後装銃)もまじっていました。苦しいながらも、旧幕府軍は少しずつ戦いの準備をととのえていきます。
土佐藩から佐賀藩へ
一方の新政府軍では、今市を守っていた土佐藩兵が白河口へ回されることになり、5月中旬からは佐賀藩兵が代わって今市に入りました。佐賀藩は藩主・鍋島直正のもとで早くから西洋の技術を取り入れ、スペンサー銃やアームストロング砲をそろえた、当時屈指の装備をもつ藩です(佐賀藩)。
板垣退助は去るにあたって、「今市の先は進むのに不利な地形だ。白河口の軍が進むまで守りを固めて待て」と佐賀藩に忠告したと伝わります。しかし佐賀藩は、宇都宮藩と相談して谷へ攻めこむことを決めました。
両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 伝習第二大隊 | 旧幕府 | 4小隊、200人弱。26日、帝釈天の小山から待ち伏せた |
| 第三大隊 | 旧幕府 | 25日、高徳・小佐越で最初に戦い、大原へ退いた。26日は兎跳に橋を架けて対岸の滝村を突いた |
| 草風隊・回天隊・別伝習隊 | 旧幕府方の諸隊 | 草風隊(隊長・村上求馬)は26日に先頭を切って斬りこんだ。回天隊は川岸から対岸の佐賀藩兵を撃った |
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
山川大蔵が副総督として後方の五十里に陣を置いた |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 佐賀藩 | 鍋島家 35万7千石 |
鍋島監物隊10小隊が鬼怒川の東岸を、鍋島鷹之助隊10小隊が西岸を進んだ。アームストロング砲を持ちこんだ |
| 宇都宮藩 | 戸田家 7万7千石 |
4小隊が佐賀藩とともに東岸を進み、山を回りこむ別働隊にも加わった |
両軍の条件を比べる
| 旧幕府軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 度重なる戦いで減っていた。藤原の本営には300人ほど | 佐賀藩20小隊と宇都宮藩4小隊。数では上回る |
| 武器 | 江戸から届いた元込め銃やミニエー銃 | スペンサー銃、アームストロング砲など最新の装備 |
| 地の利 | 狭い谷の要所に胸壁を築いて待ち構えた | 崖と山にはさまれた一本道を進むしかない |
| 指揮 | 25日は大鳥が後方の五十里へ出かけていて不在。26日は大鳥がみずから指揮 | 二つの大隊の指揮官が手柄を競い、足並みがそろわなかった |
戦いの流れ

6月25日:高徳と小佐越
6月25日の夜明け前、新政府軍は二手に分かれて動き出しました。鍋島監物の大隊は鬼怒川を渡って船生で宇都宮藩兵と合流し、東岸の会津西街道を高徳へ。鍋島鷹之助の大隊は、西岸の小佐越の道を北へ進みます。
この日、大鳥圭介は山川大蔵との軍議のため、後方の五十里へ出かけていました。高徳と対岸の小佐越を守っていたのは、第三大隊だけです。午前8時ごろ、高徳で戦いが始まりました。第三大隊は胸壁にこもり、高徳寺の裏山の上からも撃ち下ろして、数で勝る佐賀藩兵をなかなか通しません。

ところが正午ごろ、山の中を回りこんだ佐賀藩と宇都宮藩の別働隊が、高徳寺の裏山の頂上を奪います。上から胸壁の内側を撃たれた第三大隊はもちこたえられず、大原へ退きました。対岸の小佐越の守りも、これを見て崩れます。

6月25日午後:大原の陣地
谷が少し開けた大原宿には、沼間守一が築いた陣地がありました。第三大隊はここで踏みとどまり、藤原や高原から草風隊・回天隊・別伝習隊も駆けつけます。しかし対岸の小佐越からは佐賀藩自慢のアームストロング砲が撃ちこまれ、山伝いに進んだ別働隊もふたたび山の上から陣地を撃ちました。午後3時ごろ、旧幕府軍は大原を捨てて藤原へ退きます。
雨が強くなり、日も暮れてきたため、佐賀藩兵は大原の陣地を壊し、家に火を放って、大沢へ引き上げました。

大鳥圭介の決断
知らせを聞いた大鳥圭介は、増水した川に手間どりながら五十里から駆け戻りました。高原で敗れた第三大隊の兵と出会った大鳥は、悔しさをこらえつつ、開けた大原は守るのに向かないと考えます。そして「敵は明日も必ず来る」と読み、大原と藤原のあいだの難所・小原沢で待ち伏せることを決めました。
小原沢のそばには、帝釈天をまつる小さな山がありました。会津西街道は小原沢の深い谷をよけて大きく曲がっており、攻めてくる側からは、この小山が角を曲がる直前まで見えません。大鳥は伝習第二大隊と草風隊をこの小山に移し、村人の手も借りて、ひと晩で段々の塹壕を掘らせました。前日の教訓から、山を回りこむ敵に備えて、脇道にも兵を置いています。
6月26日:小原沢の待ち伏せ
26日、前日に手柄を立てられなかった鍋島鷹之助は、もう一度攻めようと鍋島監物に持ちかけました。しかし監物は「兵が疲れ、武器も服も濡れている」と断ります。鷹之助は自分の大隊だけで攻めることを決め、宇都宮藩にも加勢を頼みました。本隊は前日と同じ西岸を進み、別働隊が東岸の会津西街道を北へ向かいます。
東岸の別働隊は、山の見張りに撃たれながらも小原沢の手前まで進みました。角を曲がり、浅瀬を渡ろうとしたそのとき、帝釈天の小山と向かいの山から一斉に銃弾が浴びせられます。大鳥は兵たちに「十分に引きつけてから撃て」と命じていました。狭い一本道で散らばることもできず、佐賀藩・宇都宮藩の兵は大混乱に陥ります。

西岸の佐賀藩本隊は、対岸の銃声を頼りにアームストロング砲を撃ちますが、山に囲まれた小山にはほとんど届きません。逆に川岸に出た回天隊に撃たれ、援護もままなりませんでした。
この機をのがさず、塹壕にひそんでいた草風隊が、隊長・村上求馬の号令で銃剣をつけて飛び出しました。伝習第二大隊もつづき、小原沢のほとりは激しい斬り合いになります。佐賀藩・宇都宮藩の兵は総崩れになって大原へ逃げ、旧幕府軍は大原まで追いかけました。

兎跳の仮橋
同じころ、高原にいた第三大隊の一部は、鬼怒川が細く狭まる兎跳(いまの龍王峡)に急ごしらえの橋を架けて西岸へ渡り、滝村にいた鍋島鷹之助の本隊に上から襲いかかりました。東岸の味方の敗走も伝わったのか、佐賀藩兵は動揺し、武器を捨てて逃げ出します。川舟で逃げようとして激流にのまれた者もいたといいます。
旧幕府軍の記録には、大砲2門、小銃31挺などを奪ったとあります。その中にアームストロング砲があったかどうかは、はっきりしていません。

戦いのあと
「最後の勝利」
26日の戦いで、旧幕府軍の戦死者は草風隊長の村上求馬を含めて3人。一方、新政府軍は佐賀藩の小隊長・嬉野弥平次ら10人あまりが戦死し、宇都宮藩家老・県勇記の甥も命を落としました。宇都宮で新政府軍を破った伝習隊の強さが、もう一度よみがえったかのような勝利でした。
この大敗のあと、佐賀藩と宇都宮藩は谷へ攻めこむことをやめ、日光口の戦線は動かなくなります。大鳥の「谷で持ちこたえ、白河口が好転するのを待つ」という作戦は、ここまでは思いどおりに進みました。
白河口の崩れと母成峠
しかし、待っていた白河口では、板垣退助の土佐藩兵が加わった新政府軍が攻勢に出て、同盟軍は次々に押し返されていきました(白河口の戦い)。7月下旬、大鳥は伝習第二大隊を連れて会津へ向かいますが、その途中で会津藩から母成峠の守りを命じられます。8月21日、母成峠は一日で破られ、大鳥が鬼怒川の谷へ戻ることはありませんでした(母成峠の戦い)。
藤原の勝利は、旧幕府軍にとって日光口での最後の大きな勝利になりました。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
藤原の戦いの二日間は、どちらも「高いところを押さえた側が勝った」戦いでした。一日目は佐賀藩の別働隊が裏山を奪って勝ち、二日目は大鳥が先に小山を押さえて勝った。最新のアームストロング砲も、山に隠れた敵には役に立ちません。狭い谷の戦いでは、武器の差よりも地形の読みが勝負を分けるのだと思います。
そしてもう一つ、二日目の敗北は、佐賀藩の二人の指揮官の手柄争いが招いたものでもありました。一日目に手柄を立てられなかった鷹之助は単独で攻め、監物は本気で助けなかった。最新の装備を持つ精鋭でも、足並みがそろわなければ脆いものです。逆に、大鳥は前日の負けから学び、ひと晩で陣地を作り直しました。敗れた翌日にここまで立て直せるのは、やはり並の指揮官ではありません。
ただ、この勝利は大局を変えられませんでした。谷で勝っても、白河口で負ければ意味がない。それでも、カエルを食べながら持ちこたえた兵たちの粘りは、記録の中からいまも伝わってきます。鬼怒川温泉の賑わいの陰に、こんな戦いがあったことを知っておきたいと思います。
現地を歩く ― 藤原の戦いの史跡
- 帝釈天の小山と小原沢(日光市藤原):旧幕府軍が一夜で掘った段々の塹壕の跡が残る。会津西街道の一部は「戊辰街道」として整備され、解説板がある
- 小原村の戦いの殉難碑(日光市藤原):帝釈天の小山のふもとにある。両軍の戦死者の名が刻まれている
- 龍王峡と兎跳(日光市藤原):第三大隊が仮橋を架けて鬼怒川を渡った場所
- 高徳寺と高徳の宿(日光市高徳):25日の戦いが始まった宿場。裏山を奪われて戦いの流れが変わった
- 回向庵の佐賀藩戦死者の墓(日光市今市)
あわせて読みたい
- 今市の戦いとは?板垣退助の土佐藩兵が大鳥圭介の旧幕府軍を退けた戦い
- 宇都宮城の戦いとは?土方歳三と大鳥圭介が落とし、4日で奪い返された城
- 母成峠の戦いとは?会津藩の読みを外し、一日で会津の入口が破られた戦い
- 大鳥圭介とは何をした人物か
- 沼間守一とは何をした人物か
- 佐賀藩|宇都宮藩|会津藩
参考にした資料
- 「野州戦争第五章 鬼怒川渓谷の戦い」(『南柯紀行』『北戦日誌』『慶応兵謀秘録』『佐賀藩戊辰戦史』などを引く)
- Wikipedia「今市の戦い」
- 日光市「旧藤原町歴史年表」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


