今市の戦いとは?板垣退助の土佐藩兵が大鳥圭介の旧幕府軍を二度退けた戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく—矢田賢之助の戦死まで

杉並木の今市宿で胸壁にこもる土佐藩兵と押し寄せる旧幕府軍のイメージイラスト

日光の手前、日光街道と会津西街道が出会う今市宿(いまの栃木県日光市今市)。慶応4年(1868)の閏4月と5月、この宿場をめぐって、板垣退助の率いる土佐藩兵と、大鳥圭介の旧幕府軍・会津兵が二度にわたってぶつかりました。これが「今市の戦い」です。

旧幕府軍は二度とも今市を落とせず、二度目の敗戦で大鳥の軍は大きく数を減らします。この戦いには、近藤勇と別れた永倉新八の靖兵隊も加わり、隊士の矢田賢之助が戦死しました。この記事では、今市の戦いがなぜ起き、どの藩と部隊が戦い、なぜ旧幕府軍が今市を取れなかったのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

今市の戦いとは?ひとことで言うと

宇都宮城を追われて会津へ退いた大鳥圭介の旧幕府軍が、会津兵とともに今市を取り返そうとして、守りを固めた土佐藩兵に二度はね返された戦いです。

日時 第一次:慶応4年閏4月18日〜21日(本戦は21日)/第二次:5月6日(1868年6月10日〜25日)
場所 下野国の今市宿とその周辺(現在の栃木県日光市今市・大沢・森友、鬼怒川ぞいの大桑・高徳など)
旧幕府側 大鳥圭介の旧幕府軍(伝習隊などの第二大隊・第三大隊、貫義隊など)と、山川大蔵(のちの浩)の率いる会津藩兵。靖兵隊も加わる
新政府側 板垣退助の率いる土佐藩兵(迅衝隊)10小隊と砲隊、彦根藩兵。第二次では宇都宮からの援軍も
兵力(おおよそ) 第二次:旧幕府軍・会津兵 約600人 対 今市の土佐藩兵 約500人(ほかに日光を守る彦根藩兵 約700人)
結果 二度とも新政府軍の勝利。第二次では旧幕府軍の戦死傷が123人にのぼり、大鳥の軍は今市を取り返すのをあきらめた

なぜ今市で戦いが起きたのか

宇都宮から日光、そして会津へ

4月23日、宇都宮城を奪い返された大鳥圭介の旧幕府軍は、日光へ退きました(宇都宮城の戦いとは・安塚の戦いとは)。しかし、東照宮のある日光を戦場にすることはせず、今市から会津西街道を北へ進んで、閏4月5日に会津藩領の田島に入ります。足を撃たれた土方歳三はここで会津へ送られ、大鳥の軍は会津藩から補給と援軍を受けて立て直しました。

街道の結び目・今市

今市は、江戸から日光へ向かう日光街道と、日光から会津へ向かう会津西街道が交わる宿場です。会津へ攻め入ろうとする新政府軍にとっては足場となり、会津を守る側にとっては、ここを取れば関東へ打って出る道が開けます。新政府軍は今市に板垣退助の土佐藩兵10小隊と砲隊、あわせて500人あまりを置き、日光には彦根藩兵およそ700人を置いて守りを固めました。

板垣は、日光にいた旧幕府軍に対して、東照宮を戦火に巻きこまないよう交渉させ、兵を引かせたともいわれます。日光東照宮の神橋の近くに、いまも板垣の銅像が立っているのはそのためです。

両軍の顔ぶれと兵力

新政府軍(今市・日光の守備隊)

藩 大名家・石高 率いた人物 この戦いでの動き
土佐藩 山内家
24万石
板垣退助(迅衝隊総督)。第一次では板垣が壬生へ出かけて留守で、片岡源馬・谷干城・祖父江可成が指揮した 今市に胸壁を築いて守り、二度とも旧幕府軍を退けた主力
彦根藩 井伊家
25万石
藩主 井伊直憲 日光を守り、第二次では今市の西口の守りを引き受けた
宇都宮藩 戸田家
7万7千石
藩主 戸田忠友 第二次で、道案内を兼ねて土佐藩の援軍とともに駆けつけた

旧幕府軍・会津兵

部隊 率いた人物 この戦いでの動き
伝習隊 第二大隊 大川正次郎ら 第二次で予備から前線へ。戦死傷58人を出し、8小隊から4小隊に減った
第三大隊 滝川具綏ら 第一次で日光街道の方面から攻め、第二次では中央を受け持った
貫義隊・朱雀隊など ― 高徳・大沢の方面から攻めた
会津藩兵 山川大蔵(浩) 会津藩(松平家23万石)の援軍。第一次では大沢口から攻め、第二次では朱雀隊が両翼を受け持った
靖兵隊 永倉新八・矢田賢之助 永倉・矢田ら60人あまりで今市方面へ出陣し、矢田が戦死した

総大将は大鳥圭介です。大鳥は、地元の猟師を集めた鉄砲隊もつくり、山の上から撃たせています。

兵力と条件を比べる(第二次)

旧幕府軍・会津兵 新政府軍
兵力 約600人 今市の土佐藩兵 約500人。日光の彦根藩兵約700人と、宇都宮からの援軍
陣地 今市の東南の森友に本陣を置き、東から攻め寄せた 第一次のあと今市のまわりに胸壁や堡塁を築き、宿場を砦にしていた
補給 会津からの補給にたより、兵を補う手だてがなかった 宇都宮・日光から援軍が来られた
指揮 大鳥圭介 板垣退助。戦いのさなかに迂回隊を出して作戦を切りかえた

戦いの流れ

今市の戦いの進軍図
今市の戦いの進軍図。第一次は大沢と鬼怒川の方面から、第二次は森友から攻めた旧幕府軍を、土佐藩兵が迂回隊と宇都宮からの援軍で包んで退けた(イメージ)

閏4月18日〜19日:鬼怒川ぞいの小競り合い

閏4月18日、旧幕府軍の50人ほどが今市の北東、鬼怒川ぞいの大桑に入りこみ、土佐藩の九番隊に追い払われました。翌19日には栗原・柄倉・大桑のあたりで戦いになります。新政府軍ははじめ優勢でしたが、鬼怒川の対岸の高徳から旧幕府軍の大砲に撃たれ、山の上からは猟師隊の火縄銃に狙われて、いったん栗原まで退きました。

旧幕府軍は高徳から鬼怒川を渡って大桑へ進みますが、土佐藩の四番隊が道ばたに伏せて一斉に撃ちかけ、増援の土佐藩兵と大砲も加わって、旧幕府軍は北岸へ押し返されました。この日の損害は、土佐藩が戦死1人・負傷4人、旧幕府軍が戦死2人・負傷11人です。

閏4月21日:第一次今市の戦い

21日、旧幕府軍と会津兵は、北の大沢口と、西の日光街道の二方向から今市を攻めました。ところが、山川大蔵の率いる大沢口の隊が、もう一方の隊より早く攻撃を始めてしまい、二方向からの攻撃の時機がずれます。

大沢口では、土佐藩の三番隊(隊長・小笠原謙吉)が胸壁にこもって防ぎ、最後は谷重喜の四番隊半隊が横から奇襲して、旧幕府軍は大砲を捨てて逃げました。日光街道の方面でも、土佐藩の隊が反撃して、旧幕府軍を大谷川の向こうまで追い払います。この日の損害は、土佐藩が戦死3人・負傷12人、旧幕府軍が戦死6人・負傷18人でした。

板垣はこのあと、今市のまわりに胸壁や堡塁を築かせ、今市を砦のように固めます。

靖兵隊の今市出陣と、矢田賢之助の戦死

杉並木の今市宿で胸壁にこもる土佐藩兵と押し寄せる旧幕府軍
杉並木の今市宿。胸壁にこもる土佐藩兵に、旧幕府軍と会津兵が押し寄せる(イメージ)

靖兵隊は安塚で敗れたあと今市まで退き、数日休んでいました。そのあと、総督の命を受けて、永倉新八・矢田賢之助ら60人あまりが今市の方面へ出陣します。この戦いで、士官取締の矢田賢之助が顔に弾を受けて戦死しました。靖兵隊は戦死およそ20人、負傷およそ30人という大きな損害を出して、北の高徳へ退きます。それでも高徳では、攻め寄せた土佐藩兵を退けたといいます(靖兵隊とは)。

ただし、この靖兵隊の数字は永倉の回想にもとづくもので、土佐藩側の記録に残る旧幕府軍の戦死者(閏4月21日に6人)とは大きく食い違います。どの日の戦いだったのかも、はっきりしません。永倉の記憶ちがいなのか、別の小競り合いだったのか、記録の少ない部分です。

同じ閏4月21日、隊長の芳賀宜道と永倉は、日光を取り返すための援軍を求めて会津へ向かい、靖兵隊を離れました(芳賀宜道とは)。

5月6日:第二次今市の戦い

半月後の5月6日、旧幕府軍はもう一度今市を攻めました。第二大隊・第三大隊と会津藩兵、あわせておよそ600人です。今市の東南の森友に本陣を置き、会津の朱雀隊を両翼に、第三大隊を中央にして、東から攻め寄せました。

このとき今市にいた土佐藩兵は、はじめ一番隊と十一番小隊、大砲1門だけでした。旧幕府軍の大川正次郎・滝川具綏らは先頭に立って堡塁の50歩手前まで迫りますが、土佐藩兵の射撃に阻まれます。援軍が少しずつ加わるなか、板垣は作戦を切りかえ、西口の守りを彦根藩に任せて、別の隊に山地を回りこませ、旧幕府軍の左の背後を突かせました。

午後2時ごろ、回りこんだ隊と正面の隊の攻撃で、旧幕府軍は両翼を囲まれます。午後3時ごろには宇都宮からの援軍(土佐藩の十四番隊・十五番隊と宇都宮藩兵)が到着して、旧幕府軍の本陣を背後から襲いました。大鳥らは森の中へ逃れ、旧幕府軍は散り散りになって、大谷川を渡り、鬼怒川の谷の高徳・柄倉・小佐越の方へ逃げていきました。

戦いのあと

死傷者の数

旧幕府軍・会津兵 新政府軍
閏4月19日 戦死2人・負傷11人 土佐藩 戦死1人・負傷4人
閏4月21日 戦死6人・負傷18人 土佐藩 戦死3人・負傷12人
5月6日 戦死20人あまり、戦死傷あわせて123人(第二大隊だけで58人) 各藩の報告がなく、はっきりしない

今市の土佐藩兵の墓には9人が葬られ、いまも地元の人々の手で守られています。

大鳥の軍は守りに回る

二度の敗戦で、大鳥圭介は今市を取り返すことをあきらめ、鬼怒川の谷にこもって守りに回りました。兵を補う手だてはなく、軍はこのあと小さくなる一方でした。新政府軍の側でも、5月1日に白河城を奪い返したことを受けて、板垣は兵700を率いて白河口へ向かい、会津西街道の守りは佐賀藩兵に任されます。

こうして関東では、今市の戦い、5月15日の上野戦争、5月下旬の飯能戦争を経て、旧幕府側の大きな抵抗がほぼ終わりました(上野戦争とは)。戦いの舞台は、白河口や会津の国境へと移っていきます(白河口の戦いとは・母成峠の戦いとは)。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

今市の戦いでは、旧幕府軍は伝習隊というフランス式の精鋭を持ち、会津藩の援軍も受けていました。それでも、胸壁を築いて待ち構える土佐藩兵を二度とも崩せませんでした。安塚に続いて、ここでも「攻める側」が「守りを固めた側」に負けています。

そして、勝敗を分けたのは援軍でした。新政府軍は宇都宮や日光から兵を回せましたが、旧幕府軍には兵を補う手だてがありません。第二次の戦いで、大鳥の軍は戦死傷123人を出し、そのぶんだけ確実に小さくなりました。宇都宮城を落とした勢いは、安塚と今市で失われたといえます。

永倉新八にとっては、矢田賢之助を失い、隊を離れて会津へ向かう、靖兵隊の最後の戦いでした。「死生をおなじゅうする」と誓った仲間を失った永倉の回想の数字が、土佐藩の記録と大きく食い違っているのも、その戦いの重さを物語っているのかもしれません。

現地を歩く ― 今市の戦いの史跡

  • 日光杉並木(栃木県日光市):今市の戦いの舞台となった街道の杉並木。戦いのときの砲弾が当たった跡が残るといわれる「砲弾打込杉」があります
  • 今市宿(日光市今市):日光街道と会津西街道が交わる宿場。土佐藩兵の墓など戦いの跡が残ります
  • 板垣退助の銅像(日光市、神橋の近く):日光東照宮を戦火から守った人として、昭和4年(1929)に建てられ、昭和42年に再建されました

あわせて読みたい

参考にした資料

  • Wikipedia「今市の戦い」「靖兵隊」
  • 高知市「日光東照宮と板垣退助」
  • 永倉新八『新撰組顛末記』

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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