那須岳の西、標高1100メートルの山あいに、かつて「三斗小屋」という宿場がありました。会津と下野(いまの栃木県)を結ぶ会津中街道の、いちばん奥の宿です。慶応4年(1868)8月、この山の宿をめぐって、1万8千石の小藩・黒羽藩と会津藩の兵が戦いました。
黒羽藩の兵は大砲を担いで那須岳を越え、会津方の背後に回りこんで三斗小屋を奪い、翌日には国境の峠を越えて会津領へ攻め入ります。「三斗小屋の戦い」です。この記事では、那須の山岳戦を進軍図とイラスト、そして筆者が歩いた黒羽城跡の写真で解説します。

三斗小屋の戦いとは?ひとことで言うと
会津へ通じる山道の宿場・三斗小屋に陣を置いていた会津藩などの兵を、新政府方の黒羽藩・館林藩が那須の山を越えて攻め、会津への入口を切り開いた戦いです。
| 日時 | 慶応4年8月23日〜24日(1868年10月8日〜9日) |
|---|---|
| 場所 | 下野国那須郡三斗小屋宿・小谷村・板室のあたり(現在の栃木県那須塩原市)と、国境の大峠を越えた会津領の中峠・駒返 |
| 新政府軍 | 黒羽藩の三小隊と大砲二門、館林藩の三小隊など |
| 会津方 | 会津藩などの兵。大砲・臼砲をそなえ、駒返の砲台では約200人が守った |
| 損害 | 黒羽藩は一番小隊長の益子四郎ら5人が戦死。藩の届出では、会津方は三斗小屋・小谷村などで16人、中峠・駒返で12人が討ち取られた |
| 結果 | 新政府軍が三斗小屋を押さえ、中峠・駒返の守りも破った。三斗小屋宿は戦火で焼けた |
なぜ三斗小屋で戦いが起きたのか
会津中街道のいちばん奥の宿
三斗小屋宿は、元禄8年(1695)に会津藩が開いた会津中街道の宿場です。北の大峠(標高1468メートル)が下野と会津の国境で、街道一の難所でした。幕末には旅宿などが30軒あまり並び、白湯山へ登る人々でもにぎわっていたといいます。
山深い道ですが、会津にとっては下野へ打って出るための、新政府軍にとっては会津へ攻めこむための大事な抜け道でした。5月2日に会津藩と旧幕府軍が大田原城を急襲したときも、この三斗小屋を越えてきています(大田原城の戦い)。
那須の村々への襲撃
夏になっても、会津方は三斗小屋に兵を置いて那須の村々をおびやかしつづけました。7月には三斗小屋口から20数人が押し寄せ、黒羽藩領の13か村で火を放ち、金品を奪っています。黒羽藩と越堀に陣を置いていた烏山藩の兵が駆けつけましたが、相手はすでに山へ引き上げたあとでした。
「三斗小屋口から会津へ攻め入れ」
8月に入ると、新政府軍は二本松を落とし、会津へ攻めこむ準備を進めていました(二本松の戦い)。8月20日、二本松にいた参謀から黒羽藩に命令が届きます。三斗小屋口から会津へ進撃せよ、というものでした。8月21日には主力が母成峠を破り、会津への攻撃が始まっています(母成峠の戦い)。
両軍の顔ぶれと兵力
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 黒羽藩 | 大関家 1万8千石 |
三小隊と大砲二門を中心に、北湯から二手に分かれて三斗小屋を攻めた。家老・村上一学の鎮撫隊は板室で戦った |
| 館林藩 | 秋元家 6万石 |
三小隊。黒羽藩とともに進んだ |
会津方
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 会津藩など | 松平家 23万石 |
三斗小屋宿に陣を置き、まわりに番兵と大砲を配した。総数は記録に残っていない |
両軍の条件を比べる
| 黒羽藩・館林藩 | 会津方 | |
|---|---|---|
| 武器 | 黒羽藩は小藩ながら洋式の装備をととのえ、施条砲(ライフルを刻んだ大砲)も持っていた | 大砲・臼砲をそなえていた |
| 地形 | 険しい山を越えて攻めなければならない | 山あいの宿場と峠に陣を置いて待ち構えられる |
| 情報 | 間諜を出して、敵の番兵と大砲の位置をつかんでいた | 正面の道を守ることに力を入れていた |
| まわりの情勢 | 新政府軍の主力が会津に迫っていた | 本国の会津が攻められ、援軍は望めなかった |
戦いの流れ

8月22日:北湯へ
8月22日、黒羽藩の三小隊と大砲二門、館林藩の三小隊が出発しました。四小隊は那須岳の東のふもと・北湯へひそかに進み、二小隊は大沢村へ向かいます。小島村にいた一小隊も合流しました。間諜の知らせでは、会津方はあちこちに番兵を置き、大砲もすえているとのことでした。
8月23日:那須岳を越えて背後へ
23日、北湯の部隊は二手に分かれました。一隊は大丸塚を越えて会津方の背後へ回り、もう一隊は那須湯本の敵を追い払いながら那須岳を越えます。道はけわしく、兵たちは大砲を担いで岩場を登りました。

大丸越えの隊が背後から攻めかかると、会津方は総崩れになり、大砲や荷物を捨てて逃げ出しました。黒羽藩は小谷村にあった会津方の陣を焼きますが、この戦いで一番小隊長の益子四郎が戦死します。同じ日、家老・村上一学の鎮撫隊も板室で会津方を破りました。

8月24日:三斗小屋へ、そして会津領へ
24日の夜明け、黒羽藩の兵は三斗小屋に入りました。この戦いのなかで、宿場は戦火に焼かれました。黒羽藩は国境の大峠に一小隊を残して守らせ、その日のうちに峠を越えて会津領の野際村へ進み、中峠の会津方を破りました。

その先の駒返には砲台があり、約200人の会津方が守っていました。黒羽藩は正面から攻めるとともに、別の部隊を山腹に回りこませて挟み撃ちにします。会津方は大砲と弾薬を捨てて退き、黒羽藩は日が暮れてから三斗小屋へ戻りました。

戦いのあと
会津へ、そして佐良土へ
黒羽藩は8月26日、三斗小屋・小谷村などで16人、中峠・駒返で12人を討ち取り、大砲や小銃を奪ったと届け出ました。8月28日には会津へ攻め入るために部隊を組み直しています。
しかし山の戦いはこれで終わりませんでした。9月中旬には会津方がふたたび三斗小屋に現れて火を放ち、南会津の田島には2000人あまりが集まっているという知らせも届きます。9月27日には、水戸藩を脱け出した市川三左衛門の軍600人あまりを佐良土村で破りました(天狗党と諸生党の抗争)。
5月から10月までの出兵で、黒羽藩が動かした兵士は329人、軍夫は682人。大小20回あまりの戦いをくぐり抜け、明治2年(1869)6月には新政府から1万5千石を与えられました(黒羽城跡と黒羽藩)。
消えた宿場
三斗小屋宿は、この戦いで焼けました。那須塩原市によれば、焼けたのは14戸です。宿の人々は会津方への協力を強いられたうえ、のちには新政府軍から罪を問われた者もいたと伝わります。宿場外れの墓地には、明治13年(1880)に建てられた「戊辰戦死若干墓」が残っています。
宿はその後も細々とつづきましたが、明治41年(1908)の大火で残った家もすべて焼け、昭和32年(1957)に最後の一戸が山を下りて、無人の地になりました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
三斗小屋の戦いで驚くのは、1万8千石の黒羽藩が、大砲を担いで那須岳を越えたことです。正面の道を守る相手の背後へ、山を越えて回りこむ。小さな藩でも、洋式の装備と、敵の配置を調べ上げる用意があれば、ここまでの戦いができるのだと思います。黒羽藩は、幕府の陸軍奉行・海軍奉行をつとめた先代の藩主・大関増裕のもとで、早くから兵の近代化を進めていました。
一方で、忘れてはいけないのが三斗小屋宿の人々です。会津方に協力させられ、新政府軍が来れば罪を問われ、家は焼かれる。戦場になった山の宿の人々にとって、どちらが勝つかよりも、戦がいつ終わるかのほうが切実だったはずです。いまは誰も住んでいないその宿跡に、「戊辰戦死若干墓」だけが残っているというのは、なんとも言えない気持ちになります。
筆者が歩いた黒羽城跡には、戊辰戦争の戦死者を祀る黒羽神社があります。益子四郎たちも、ここに祀られた一人なのでしょう。小藩の城跡の静かな境内と、那須の山奥の焼けた宿。二つの場所を思い浮かべると、この戦争の広がりの大きさがあらためて感じられます。
現地を歩く ― 三斗小屋の戦いの史跡
- 三斗小屋宿跡(那須塩原市板室):那須塩原市の指定史跡。石の大日如来像や石灯籠、宿場外れに「戊辰戦死若干墓」が残る。三斗小屋温泉から西へ約3キロ、山道を歩いて行く
- 大峠:下野と会津の国境の峠。会津中街道の最大の難所
- 黒羽城跡(大田原市前田):黒羽藩の居城。県北最大の山城で、空堀と土塁がよく残る
- 黒羽神社(大田原市):黒羽城跡にある、戊辰の戦死者を祀る招魂社に由来する神社



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- 黒羽藩|館林藩|会津藩
参考にした資料
- 『黒羽町誌』(大田原市 地域史資料デジタルアーカイブ)
- 那須塩原市「三斗小屋宿跡」
- Wikipedia「三斗小屋宿」
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


