真夏の夜、月が雲から顔を出すたびに、何百人もの兵が泥の中へいっせいに身を伏せました。ひざまで沈む沼の水、足にからみつく葦(あし)、ときどき聞こえるカエルの声。声を出すことも、明かりをつけることも許されません。慶応4年7月24日(1868年9月10日)の夜、長岡藩の兵たちは、長岡城の北東に広がる「八丁沖(はっちょうおき)」という大きな沼を、ひと晩かけて渡ろうとしていました。
2か月前に新政府軍に奪われた自分たちの城を、取り返すためです。作戦を考えたのは、長岡藩の家老・河井継之助(かわい つぐのすけ)でした。敵が「ここから攻めてくるはずがない」と思っている沼をあえて渡り、夜明けとともに背後から襲いかかる――。この奇襲は見事に成功しますが、それは長岡藩にとって、最後の大きな勝利でもありました。この記事では、八丁沖の戦いの4日間を、進軍図とイラストで解説します。

八丁沖の戦いとは?ひとことで言うと
八丁沖の戦いは、長岡藩の兵がひと晩かけて八丁沖の沼地を渡り、夜明けに新政府軍を奇襲して長岡城を奪い返した戦いです。しかし河井継之助はこの戦いで足に重い傷を負い、城もわずか4日後に再び奪われました。
| 日時 | 慶応4年7月24日夜〜25日(城の奪回)。7月29日に再落城 |
|---|---|
| 場所 | 越後国古志郡の八丁沖と長岡城下(現在の新潟県長岡市。富島町・宮下町・大黒町あたり) |
| 旧幕府方(同盟軍) | 長岡藩(河井継之助)。会津藩・桑名藩・米沢藩・仙台藩などの同盟軍が各方面から呼応 |
| 新政府軍 | 長州藩・薩摩藩などの諸藩(総督 西園寺公望、参謀 山県有朋ら) |
| 兵力(おおよそ) | 沼を渡った長岡藩兵 約600〜700人(資料により違う)。新政府軍は北越の戦線全体で2万〜3万人ともいわれる(長岡城のまわりにいた兵はその一部) |
| 戦死者(わかれば) | はっきりしない。長岡藩について、城の奪回で戦死63人・重傷47人、再落城で戦死53人・重傷49人とする書物もあるが、数え方は資料によってちがう |
| 結果 | 長岡藩が城の奪回に成功。しかし7月29日に新政府軍の反撃で再落城し、長岡藩は会津へ退く |

なぜ八丁沖で戦いが起きたのか
5月19日、長岡城が奪われた
長岡藩は、牧野家が治める7万4千石の藩です。家老の河井継之助は、洋式の銃や大砲(ガトリング砲も買い入れたことで知られます)をそろえ、新政府軍と旧幕府方のどちらにもつかない「中立」の道を探っていました。しかし慶応4年5月、小千谷(おぢや)での新政府軍との話し合い(小千谷談判)が決裂し、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって戦うことになります。
5月19日、新政府軍は増水した信濃川を渡って長岡城下に攻め込み、城は1日で落ちてしまいました。長岡藩の兵は城を出て、東の栃尾(とちお)や加茂などへ退きます。

2か月続いたにらみ合い
その後、長岡藩は同盟軍と力を合わせて反撃し、6月2日には今町(いままち)を取り返しました。けれども新政府軍も守りを固め、長岡城の北と東で両軍が陣地をはさんで向かい合い、あちこちで小さな戦いをくり返しながら、どちらも決め手を欠く日々が2か月近く続きます。新政府軍には次々と増援が届き、時間がたつほど同盟軍は不利になっていきました。
「天然の堀」だった八丁沖
長岡城の北東には、南北およそ5キロ、東西およそ3キロもある大きな沼沢地(しょうたくち)が広がっていました。これが八丁沖です。深い泥と葦におおわれ、人が大勢で渡れる場所ではないと考えられていたため、新政府軍は八丁沖を「天然の堀」とみなし、沼に面した側の守りを手薄にしていました。
河井はここに目をつけます。沼の様子にくわしい藩士・鬼頭熊次郎(きとう くまじろう)に、ひそかに沼の中を調べさせました。鬼頭は「渡れる」と答えたと伝えられます。渡る道すじには、前もって目印の青竹を立てるなどの準備もしていたといわれ、やみくもに泥へ飛びこむ作戦ではありませんでした。7月17日、河井は栃尾の本営で会津藩・桑名藩の隊長たちに反攻の作戦を示しました。決行は20日の予定でしたが、雨続きで沼の水かさが増したため、24日の夜にのばされました。

両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府方(奥羽越列藩同盟)
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長岡藩 | 牧野家 7万4千石 |
主力。約600〜690人が17小隊・4つの梯隊に分かれて八丁沖を渡り、富島・宮下に上陸して城下へ突入した |
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
作戦会議に加わり、長岡藩の奇襲に合わせて別の方面から攻めた |
| 桑名藩 | 松平家 11万石 |
作戦会議に加わり、同盟軍の一隊として呼応した |
| 米沢藩 | 上杉家 18万石 |
同盟軍の大きな戦力として城をめざしたが、途中で苦戦し、入城が大きく遅れた |
| 仙台藩 | 伊達家 62万石 |
栃尾に残っていた隊が24日に土ヶ谷で敵の注意をそらす攻撃をおこない、隊長ら5人が戦死したとする記録もある |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
長岡城下の守りの中心。参謀の山県有朋(狂介)は奇襲を受けて信濃川の西へ逃れた |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
新町口方面から反撃し、ここで河井継之助が撃たれた |
| 北陸の諸藩など | ― | 城のまわりの陣地を守っていたが、背後からの奇襲で大混乱になった |
両軍の条件を比べる
| 長岡藩・同盟軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 奇襲部隊は約600〜700人。同盟軍を合わせても数では劣る | 北越の戦線全体で2万〜3万人ともいわれ、増援が続いていた |
| 武器 | 洋式銃をそろえていたが、弾薬は少なくなっていた | 新式の銃・大砲が豊富 |
| 指揮官 | 河井継之助(軍事総督) | 総督 西園寺公望、参謀 山県有朋ら |
| 地の利 | 地元の兵なので沼や村の道を知りつくしていた | 沼側からの攻撃を予想しておらず、守りが手薄 |
| 弱み | 沼を渡った兵は泥だらけで疲れきっていた | 不意をつかれて指揮が乱れた |
戦いの流れ

7月24日夕方〜夜:沼のほとりに集まる
7月24日の夕方、長岡藩の兵は八丁沖の北側、百束(ひゃくそく)のあたりに集まりました。同じ日、栃尾にいた仙台藩の隊が土ヶ谷で攻撃をしかけ、新政府軍の目をそちらへ引きつけたとされます。
夜になると(渡り始めた時刻は午後7時ごろとも10時ごろともいわれます)、先導役の鬼頭熊次郎ら10人ほどを先頭に、兵たちは一列になって沼へ入っていきました。音を立てないよう、刀や銃が当たらないように気をつけたといいます。

7月24日深夜:泥と月明かりとの戦い
沼の中は、ひざまで、ところによっては腰まで泥に沈む場所もありました。兵たちは葦をかき分け、ときには腹ばいになって進みます。月が雲から出ると全員がその場に伏せ、また暗くなるのを待ちました。一列で進んだため、最後の兵が渡りきるまでに6時間ほどかかったといわれます。

7月25日午前2時〜4時ごろ:富島・宮下に上陸
25日の午前2時ごろ、先頭の部隊は対岸の富島(とみじま)村のすぐ手前にたどり着き、後続を待ちました。そして午前4時ごろ、いっせいに新政府軍の宮下(みやした)の陣地へ攻めかかります。農家に火を放ち、そののろしを合図に、ほかの方面の同盟軍も動き出しました。
不意をつかれた守備隊は、ほとんど持ちこたえられずに退いたとされます。ただ、先頭に立って富島に飛びこんだ鬼頭熊次郎は、このとき敵の弾に倒れました。奇襲が成功するまでは撃つことを禁じられていたため、一発も撃たないまま亡くなったと伝わります。作戦をいちばん支えた人が、成功の瞬間に命を落としたのです。

7月25日朝〜昼:城下へなだれこむ
上陸した長岡藩兵は4つの隊に分かれ、長岡城下へ向かって進みました。長州藩兵が反撃しましたが押し返され、新政府軍は大混乱におちいります。信濃川に飛びこんで逃げる兵もいたといいます。
総督の西園寺公望は信濃川を渡り、関原(せきはら)方面へと退き、参謀の山県有朋も川の西へ退きました。新政府軍は大砲や小銃、弾薬を大量に残していったと伝えられます。長岡藩はその日のうちに長岡城を取り返しました(決着の時刻は、昼過ぎとも夜ともいわれます)。
ただし、取り返した長岡城は、もとのすがたではありませんでした。5月19日に落ちたとき、城は火につつまれ、門や櫓、本丸の御殿など多くの建物が焼けてしまっていたからです。長岡藩が取りもどしたのは、焼けあとの城と城下の町でした。それでも城下の町人たちは藩兵を迎え、酒樽を出してよろこんだと伝えられます。
ただし、すべてが計画どおりに進んだわけではありません。別の方面から城をめざした米沢藩兵は途中で苦戦し、長岡城に入るのが大きく遅れました。また、城の奪回までに長岡藩は戦死63人・重傷47人を出したとする記録もあり、勝利の代償は小さくありませんでした。それでも、会津に身を寄せていた藩主・牧野忠訓(ただくに)のもとには、26日の夕方に「城を取り戻した」という知らせが届いたといいます。

7月25日:新町口で河井継之助が撃たれる
勝利の陰で、大きな不幸が起きます。新町口(しんまちぐち)の方面から薩摩藩兵が反撃してきたため、河井継之助は自ら救援に向かいました。その途中、左のひざの下に銃弾を受けたのです。骨が砕けるほどの重い傷で、河井は歩くことも、指揮をとることもできなくなりました。
河井は四郎丸村(しろうまるむら)の昌福寺(しょうふくじ)に設けられた病院に運ばれました。長岡藩は城を取り戻しましたが、同時に、戦いの「頭脳」を失ってしまったのです。

7月29日:わずか4日で再び落城
このころ、新政府軍の別の部隊が新潟の北の太夫浜(たゆうはま)に上陸し、さらに同盟に加わっていた新発田藩(しばたはん)が新政府側につきました。新発田藩はもともと新政府寄りでしたが、まわりの同盟の藩におされて同盟に加わっていたので、新政府軍の上陸をきっかけに立場を変えたのです。同盟軍は背後をおびやかされ、大きく動揺します。
7月29日の早朝、新政府軍は三方から長岡城へ反撃しました。疲れきり、弾薬も足りない長岡藩兵は支えきれず、城はわずか4日で再び落ちました。このとき長岡藩は、戦死53人・重傷49人を出したとする記録があります。同盟軍は総退却を決め、長岡藩は会津をめざして退いていきました。

戦いのあと
八十里越と河井継之助の最期
傷ついた河井は担架(たんか)に乗せられ、越後と会津の国境にある険しい峠道「八十里越(はちじゅうりごえ)」を越えて会津へ向かいました。このとき河井が「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」という句をよんだと伝えられています。
会津領の塩沢村(現在の福島県只見町)にたどり着いた河井は、医師の矢沢家に身を寄せましたが、傷が悪化し(破傷風を起こしたともいわれます)、8月16日(1868年10月1日)に亡くなりました。数え年で42歳でした。遺骨は会津若松の建福寺に葬られたと伝わり、のちに長岡の栄凉寺に墓が建てられています。
長岡藩のその後
会津に入った長岡藩兵は隊を組み直し、会津若松城の戦いでも戦い続けました。8月23日、新政府軍が会津城下に攻め込んだ日にも、長岡藩兵は城下で戦い、多くの戦死者を出しています。長岡藩はやがて降伏し、領地は大きく減らされました。城下は二度の戦いで焼け、長岡城も焼けたまま再建されることはなく、明治になって取りこわされて姿を消しました。
現在、八丁沖の沼は干拓されて田んぼや住宅地となり、富島町の「八丁沖古戦場パーク」に石碑と解説の碑が建てられています。先導役の鬼頭熊次郎をたたえる碑も、富島町の日光社に残されています。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
八丁沖の戦いを調べていて、いちばん心に残ったのは「渡りきるまで6時間」という数字です。ひと晩じゅう泥に沈み、月が出るたびに伏せ、声も出せない。勇ましい突撃の場面よりも、その静かな長い時間のほうに、長岡の人たちの覚悟がこもっていると感じます。自分たちの城と町を取り戻したいという思いがなければ、とてもできないことでしょう。
一方で、この勝利がわずか4日で終わったことも忘れてはいけないと思います。敵の弱点を見抜いた作戦は見事でしたが、兵力も弾薬も限られた中での「一度きりの賭け」でした。さらに、作戦を支えた鬼頭熊次郎が上陸の瞬間に倒れ、作戦を考えた河井継之助自身も撃たれてしまう。勝ったはずの戦いで、いちばん大切な二人を失ったことが胸に残ります。
河井はもともと、戦わずに長岡を守る道を探していた人でした。その人が、最後には泥の沼を渡ってまで城を取り戻そうとした。その間にあった迷いや決断を想像すると、八丁沖は単なる「奇襲の成功例」ではなく、小さな藩が大きな時代の波の中で必死にもがいた場所なのだと感じます。
現地を歩く ― 八丁沖の戦いの史跡
- 八丁沖古戦場パーク(新潟県長岡市富島町):長岡藩兵が上陸して戦った激戦地。石碑と解説碑がある
- 日光社・鬼頭熊次郎の碑(新潟県長岡市富島町):沼を渡る先導役をつとめ、上陸の戦いで倒れた鬼頭熊次郎をたたえる碑
- 大黒古戦場パーク(新潟県長岡市大黒町):八丁沖の北西のはしにあたり、長岡藩兵と新政府軍が激しく戦った場所
- 北越戊辰戦争伝承館(新潟県長岡市大黒町):大黒古戦場パークのとなり。地元の人びとの目から見た戦いを紹介し、2階からは八丁沖のあたりを見わたせます
- 長岡城本丸跡(新潟県長岡市・JR長岡駅周辺):城は戊辰戦争で焼け、現在は駅前に跡を示す碑が建つ
- 河井継之助記念館(新潟県長岡市長町):河井の屋敷跡に建つ記念館。生涯と北越戦争を紹介している
- 只見町河井継之助記念館(福島県南会津郡只見町塩沢):河井が最期を迎えた塩沢村にある記念館
あわせて読みたい
参考にした資料
- ウィキペディア「八丁沖の戦い」「北越戦争」「八丁沖」
- 新潟文化物語「八丁沖古戦場パーク」
- ニッポン旅マガジン「八丁沖古戦場パーク」「大黒古戦場パーク」ほかの解説
- 立命館大学史資料センター コラム(戊辰戦争と北越・会津)
- 「長岡藩の戊辰戦争」(個人研究サイト)
- 北条高時.com「長岡城奪還!八丁沖の戦い」
- 気ままに江戸♪「八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート)」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


