慶応4年(1868)3月3日、信濃の下諏訪宿のはずれで、8人の男が斬首されました。中心にいたのは相楽総三、30歳。わずか2か月前、新政府軍の先鋒「赤報隊」の隊長として、中山道を意気揚々と東へ進んでいた人物です。その彼が、味方であるはずの新政府から「偽官軍」の烙印を押され、ろくな取り調べもないまま首を斬られました。
この記事では、赤報隊の始まりから終わりまでを、相楽総三という人物の歩み、赤報隊の結成と幹部・兵力・編成、中山道の進軍、帰京命令、偽官軍の布告、追分の戦い、そして下諏訪での斬首まで、進軍図と表を使ってくわしく解説します。赤報隊がなぜ切り捨てられたのかを短くまとめた記事として「“偽官軍”の汚名を着せられて—赤報隊・相楽総三はなぜ切り捨てられたのか」もあわせてご覧ください。
赤報隊とは?ひとことで言うと
鳥羽伏見の戦いの直後に、西郷隆盛と岩倉具視の内意を受けて結成された、草莽の志士たちによる新政府軍の先鋒隊です。「年貢半減」を掲げて中山道を東へ進み、民衆の支持を集めました。ところが新政府はまもなく年貢半減を取り消し、赤報隊に帰京を命じます。命令に従わず進み続けた相楽総三の一番隊は「偽官軍」とされ、相楽ら幹部8人は下諏訪で処刑されました。
| 結成 | 慶応4年(1868)1月8日(9日とも) |
|---|---|
| 結成の地 | 近江国 松尾山 金剛輪寺(現在の滋賀県愛荘町) |
| 盟主 | 公家の綾小路俊実・滋野井公寿 |
| 隊長 | 相楽総三(一番隊長を兼ねる) |
| 編成 | 一番隊(相楽総三)・二番隊(鈴木三樹三郎)・三番隊(油川錬三郎) |
| 兵力 | 全体の正確な数は不明。桑名へ向かった二卿の一行は約300人、中津川宿に入った相楽の一番隊は約45人と伝わる |
| 掲げた布告 | 年貢半減令(旧幕府領の年貢を半分にする) |
| 最期 | 2月10日に「偽官軍」とされ、3月3日、相楽総三ら8人が下諏訪で斬首される |
相楽総三とは—赤報隊を率いた草莽の志士
豪農の家に生まれた国学者
相楽総三は、本名を小島四郎(小島四郎左衛門将満)といいます。天保10年(1839)、江戸の赤坂で生まれました。家は下総国相馬郡(現在の茨城県取手市のあたり)の郷士の家柄で、多くの土地を持つ豊かな家でした。四郎は若いころから兵学と国学を学び、平田派の国学を通じて尊王の思いを強めていきます。
藩に属する武士ではなく、身分や藩の枠にとらわれずに国を憂えて立ち上がった在野の志士を「草莽(そうもう)」といいます。相楽総三は、まさにその草莽の代表といえる人物でした。
赤城山と筑波山—挙兵の失敗
文久元年(1861)ごろから、四郎は東国各地をめぐって同志を集めはじめます。文久3年(1863)には上野国の赤城山で挙兵する計画に加わりましたが、計画は事前にもれて失敗しました。元治元年(1864)には、水戸の天狗党が筑波山で兵を挙げると、これに加わります。しかし指導者の藤田小四郎と意見が合わず、途中で山を下りました。
西郷隆盛と江戸の薩摩藩邸
慶応2年(1866)ごろ上洛した四郎は、薩摩の西郷隆盛と結びつきます。慶応3年(1867)10月、討幕の密勅が出されると、西郷の意を受けて江戸に下り、三田の薩摩藩邸に浪士を集めました。このころから「相楽総三」と名のるようになります。
集まった浪士は500人ほどともいわれ、相楽はその総裁となりました。浪士たちは江戸の町で豪商を襲って軍資金を奪い、「御用盗」と呼ばれておそれられます。下野の出流山で兵を挙げ(出流山事件)、相模では荻野山中藩の陣屋を襲いました。幕府を挑発して戦いに引きずり出すための工作でした。
挑発はついに実を結びます。慶応3年12月25日、庄内藩などが江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしたのです。この知らせが大坂に届くと、旧幕府軍は「討薩」を掲げて京へ攻め上がり、慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まりました。相楽総三たちは、戊辰戦争の口火を切った者たちでもあったのです。焼き討ちのなか、相楽らは薩摩の船で江戸を脱出し、京へ向かいました。
赤報隊の結成
金剛輪寺で旗を揚げる
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府は東へ兵を進める準備を始めます。相楽総三は、東へ向かう官軍の先頭に立つ部隊の結成を願い出ました。西郷隆盛と岩倉具視の後押しを受け、慶応4年1月8日(9日とも)、近江国の松尾山 金剛輪寺で「赤報隊」が結成されます。
隊の名は「赤心をもって国恩に報いる」という言葉からとられました。赤心とは、うそいつわりのない真心のことです。盟主には、若い公家の綾小路俊実と滋野井公寿の二人を迎えました。公家を頭にいただくことで、朝廷の軍であることを示そうとしたのです。

写真:VanishingDuck, CC BY-SA 3.0, Wikimedia Commons

三つの隊と幹部たち
赤報隊は、出自のまったく違う三つの隊でできていました。
| 隊 | 隊長 | おもな顔ぶれ | その後 |
|---|---|---|---|
| 一番隊 | 相楽総三 | 渋谷総司・西村謹吾・竹貫三郎・大木四郎ら、薩摩藩邸以来の相楽の同志 | 帰京命令に従わず信州へ。相楽ら8人が下諏訪で斬首 |
| 二番隊 | 鈴木三樹三郎 | 篠原泰之進・阿部十郎ら、新選組を離れた旧御陵衛士 | 京都へ戻り、のちに徴兵七番隊となる |
| 三番隊 | 油川錬三郎 | 近江水口藩の藩士ら | 一部は四日市で斬首。ほかは京都へ戻され追放 |
二番隊の鈴木三樹三郎は、新選組の参謀だった伊東甲子太郎の実の弟です。伊東は前年の11月、油小路事件で新選組に斬られており、生き残った御陵衛士たちがこの二番隊に加わりました。のちに甲斐の侠客・黒駒勝蔵も、小宮山勝蔵の変名で赤報隊に加わっています。
兵力—どれくらいの人数だったのか
赤報隊全体の正確な人数は、はっきりしていません。記録に残る数字をまとめると、次のようになります。
| 時期・場所 | 人数 |
|---|---|
| 江戸の薩摩藩邸(慶応3年末) | 浪士 約500人(赤報隊の母体) |
| 桑名に着いた滋野井公寿の一行 | 約300人 |
| 岩手村で加わった竹中家の家臣ら(1月) | 約20人 |
| 中津川宿に入った相楽の一番隊(1月29日) | 約45人 |
| 下諏訪で斬首された幹部(3月3日) | 8人 |
数百人規模で旗を揚げた赤報隊も、帰京命令で二番隊・三番隊が去ったあと、相楽のもとに残ったのは数十人ほどの一番隊でした。信州に入ってから土地の人々が加わり、人数はふたたびふくらんでいきます。
年貢半減令—民衆の心をつかむ切り札
相楽総三は、新政府に「官軍之御印」の下付と、年貢の軽減を願い出ていました。1月14日、新政府はこれを認め、旧幕府領の年貢を今年は半分にするという「年貢半減令」が出されます。赤報隊は、行く先々の村でこれを触れ回りました。
重い年貢に苦しんできた農民にとって、これほどありがたい話はありません。「官軍が来れば年貢が半分になる」—この知らせは、旧幕府方の足元を大きく揺さぶりました。赤報隊は、武力だけでなく人々の心をつかむことで、新政府軍の進む道を開こうとしたのです。
中山道を東へ—赤報隊の進軍

岩手村の陣屋を収める
1月15日、赤報隊は金剛輪寺を出発しました。1月18日には美濃国の岩手村(現在の岐阜県垂井町)に入ります。ここには、戦国の軍師・竹中半兵衛の子孫である旗本竹中家の陣屋がありました。当主の竹中重固は旧幕府の若年寄として鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を指揮しており、陣屋の家臣たちは赤報隊を迎えて緊張に包まれます。
しかし家老の児玉周左衛門が家臣たちをおさえ、陣屋は戦うことなく明け渡されました。大砲や小銃、弾薬、軍資金も差し出されます。さらに北村与六郎をはじめとする約20人が、赤報隊に加わることを願い出ました。1月22日、相楽の隊は岩手村をあとにします。
帰京命令—二番隊・三番隊は引き返す
ところが、京都の新政府では風向きが変わりつつありました。発足したばかりの新政府には、戦いを続けるためのお金がありません。新政府は三井や鴻池などの豪商から軍資金を借り、その担保として年貢を取り扱う権利をあてにしていました。年貢を半分にしてしまっては、借りたお金を返すあてがなくなります。
1月25日、新政府は赤報隊に京都へ戻るよう命じました。そして1月27日、年貢半減令はひそかに取り消されます。相楽総三は、このことを知らされていなかったといわれます。
綾小路俊実と滋野井公寿は命令に従い、二番隊・三番隊も京都へ引き返しました。二番隊はのちに新政府の徴兵七番隊に組み込まれます。一方、三番隊は進軍の途中で各地から金品を取り立てたことがとがめられ、一部の隊士は伊勢亀山藩などに捕らえられて、四日市の三滝川の河原で7人が斬首されました。
「官軍先鋒嚮導隊」として信州へ
しかし相楽総三は引き返しませんでした。碓氷峠をおさえなければ、東へ向かう官軍が不利になる—そう考えた相楽は、一番隊を率いて進み続けます。1月29日、相楽が率いる約45人が突然、中山道の中津川宿に入り、本陣の市岡家に2月2日まで泊まりました。
中津川を出た一行は妻籠に泊まり、清内路の峠を越えて伊那谷の飯田へ出ると、伊那街道を北へ進みました。2月5日から6日にかけて、中山道と甲州道中が出あう下諏訪宿に入り、ここに本陣を置きます。相楽は隊の名を「官軍先鋒嚮導隊」と改めました。嚮導とは、道案内のことです。東山道を進む官軍の本隊に先立ち、信州と東北のようすを探り、碓氷峠を押さえることが目的でした。
「偽官軍」の烙印
2月10日の回章
相楽総三たちが信州に入ったころ、新政府の東山道総督府は、信州の諸藩にあてて一通の回章(回覧の通達)を出しました。2月10日のことです。そこには、赤報隊(嚮導隊)と、甲斐で動いていた高松隊は官軍の名をかたる「偽官軍」であり、見つけしだい捕らえよ、と書かれていました。
赤報隊が年貢半減を触れ回ったのは、新政府の許しを得てのことでした。しかし新政府は「官軍之御印」を最後まで渡さず、許しを与えたことを示す書き付けも残していませんでした。年貢半減は相楽らが勝手に言いふらしたもの—新政府はそういう筋書きで、都合の悪くなった約束を赤報隊ごと切り捨てたのです。
相楽の弁明と、留守中の追分の戦い
2月8日ごろ、相楽総三は総督府に呼び出され、隊を下諏訪に残して西へ向かいました。弁明のための旅でしたが、相楽が留守にしているあいだに、事態はさらに悪くなります。
嚮導隊の一部は、北へ分かれて碓氷峠の手前の追分宿まで進んでいました。桜井常五郎らが率いるこの北信分遣隊は、村々に年貢半減を触れ、軍資金を集めていました。2月17日の夜から18日の未明にかけて、偽官軍の回章を受けた小諸藩を中心とする信州の兵、およそ300人が、追分の宿に泊まる嚮導隊を襲います。軽井沢から駆けもどった隊士が押し返し、宿場の11軒が焼けましたが、隊はそのあと岩村田で降伏し、桜井常五郎らは3月5日に追分で首を斬られました。碓氷峠を押さえるという相楽の計画は、ここでついえました。この一夜のくわしい経過は「追分の戦いとは」にまとめています。


下諏訪での捕縛と斬首
呼び出されて捕らえられる
2月23日、相楽総三は下諏訪に戻りました。仲間の多くはすでに殺されたり捕らえられたりしています。2月27日、嚮導隊は下諏訪から少し離れた樋橋の宿へ陣を移しました。そして3月1日(2日とも)、下諏訪に到着した東山道総督府から呼び出しを受けた相楽は、本陣の岩波家に出向いたところで縛り上げられました。

写真:663highland, CC BY 2.5, Wikimedia Commons
相楽は捕らえられた同志の釈放を願いましたが、弁明の機会はほとんど与えられませんでした。相楽と幹部たちは諏訪明神の並木に引き出されて木に縛りつけられ、まわりを槍と鉄砲を持った番兵に囲まれました。みぞれまじりの冷たい雨のなか、食べ物も湯も与えられないまま夜を明かしたと伝えられます。
3月3日—下諏訪のはずれで
3月3日の朝、近くの村々から大勢の人々が集まりました。8人は名を呼ばれ、下諏訪宿のはずれの刑場へ引き出されます。罪状を書いた書き付けは見せられただけで、読み上げられることもありませんでした。
ほかの7人が役人をののしるなか、相楽総三はひとことも口をききませんでした。御所のある西の方角を向いて座り、首斬り役に「しっかりやれよ」と声をかけたといいます。最初の一太刀は手元が狂って右の肩に当たり、相楽は振り返って「代われ」と叱りつけました。役を代わった者の二太刀めで、相楽の首は落ちました。30歳でした。
| 月日 | 場所 | 処刑された人 |
|---|---|---|
| 3月3日 | 下諏訪宿のはずれ | 相楽総三・渋谷総司・竹貫三郎・小松三郎・西村謹吾・大木四郎・高山健彦・金田源一郎の8人 |
| 3月5日 | 追分宿 | 北信分遣隊の桜井常五郎ら3人 |
| 3月 | 甲府の山崎刑場 | 高松隊の小沢一仙 |
隊を率いた公家たちは処罰の対象からはずされ、罪を負わされたのは草莽の志士たちだけでした。斬られた8人のうち西村謹吾は、伊勢亀山藩を脱藩した武士で、本名を山本鼎といったとされます。江戸にいた相楽の妻・照は、夫の死を知ると幼い息子の河次郎を残してあとを追いました。
赤報隊の流れ(慶応4年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 前年12月25日 | 江戸の薩摩藩邸焼き討ち。相楽らは江戸を脱出する |
| 1月3日 | 鳥羽伏見の戦いが始まる |
| 1月8日 | 近江の金剛輪寺で赤報隊を結成(9日とも) |
| 1月14日 | 年貢半減令が出される |
| 1月15日 | 金剛輪寺を出発 |
| 1月18日 | 美濃の岩手村に入り、竹中家の陣屋を収める |
| 1月25日 | 新政府が赤報隊に帰京を命じる。二番隊・三番隊は引き返す |
| 1月27日 | 年貢半減令がひそかに取り消される |
| 1月29日 | 相楽の一番隊 約45人が中津川宿に入る |
| 2月5日〜6日 | 下諏訪宿に本陣を置き、「官軍先鋒嚮導隊」と名のる |
| 2月8日ごろ | 相楽が総督府に呼び出され、隊を離れる |
| 2月10日 | 東山道総督府が赤報隊を「偽官軍」とする回章を出す |
| 2月17日 | 追分の戦い。嚮導隊が小諸藩などに敗れる |
| 2月23日 | 相楽が下諏訪に戻る |
| 3月1日 | 相楽が下諏訪で捕らえられる(2日とも) |
| 3月3日 | 相楽総三ら8人が下諏訪で斬首される |
| 3月5日 | 桜井常五郎ら3人が追分で斬首される |
その後—「魁塚」と名誉回復
明治3年(1870)、生き残った同志の落合直亮らの願いにより、処刑の場所に塚が築かれました。これが「魁塚(さきがけづか)」、別名「相楽塚」です。新政府の先がけとなって散った者たちの塚、という意味がこめられています。
しかし「偽官軍」の汚名は、明治の世になっても晴れませんでした。相楽の孫の木村亀太郎は、祖父の名誉を取り戻すため、大正7年(1918)から何度も政府に願い出ます。そして昭和3年(1928)、ようやく相楽総三に正五位、渋谷総司に従五位が贈られ、赤報隊の隊士たちの名も贈位にあげられました。処刑から60年後のことです。
魁塚では、いまも毎年4月3日に、遺族と地元の相楽会による相楽祭が営まれています。平成20年(2008)には、岩手村から加わった志士たちをしのぶ顕彰碑が、岐阜県垂井町にも建てられました。ただし、高松隊の小沢一仙のように、いまも名誉を回復されていない者もいます。
この戦いが示したもの
赤報隊の物語は、明治維新の光の裏側にある影を、もっともはっきりと映し出しています。新政府は、民衆の心をつかむために年貢半減を約束させ、草莽の志士たちを先頭に立てました。そして約束が重荷になると、その約束を広めた者たちに罪をかぶせて切り捨てました。
もちろん、赤報隊がまったく清廉だったわけではありません。軍資金を集めるために豪商や村々から金品を取り立てたこともあり、三番隊のように略奪をとがめられた者もいました。帰京命令に従わなかったことも事実です。それでも、自分たちが触れ回った年貢半減の約束を信じ、東へ進み続けた相楽総三たちに、弁明の場さえ与えずに首を斬った新政府のやり方には、どうしても割り切れないものが残ります。
天誅組、生野の変、そして赤報隊—「維新の魁(さきがけ)」と呼ばれた草莽の志士たちの多くは、新しい世を見ることなく散っていきました。下諏訪の魁塚は、その名のとおり、時代の先がけとなりながら報われなかった者たちの墓標です。
現地を歩く—魁塚と下諏訪宿
長野県下諏訪町の魁町、旧中山道ぞいに魁塚(相楽塚)があります。町の史跡に指定されており、相楽総三をはじめ処刑された8人の名を刻んだ碑と墓石が並んでいます。下諏訪宿は中山道と甲州道中が出あう宿場町で、相楽が捕らえられた本陣の岩波家もいまに残ります。諏訪大社下社の秋宮・春宮も近く、宿場の町並みとあわせて歩くことができます。


写真:Qurren, CC BY-SA 4.0, Wikimedia Commons

写真:Public domain, Wikimedia Commons
筆者の感想
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参考資料
- 長谷川伸『相楽総三とその同志』
- 『相楽総三関係史料集』
- 下諏訪町「魁塚(相楽塚)」解説
- 垂井町「赤報隊を知っていますか」
- 中津川市「中津川宿 赤報隊 相楽総三」
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです


