追分の戦いとは?赤報隊が「偽官軍」として小諸藩に夜襲された一夜—兵力・藩・その後の斬首までを図解でわかりやすく

追分宿の夜襲と炎上(慶応4年2月18日未明)のイメージイラスト

慶応4年(1868)2月18日の夜明け前。中山道と北国街道が分かれる信濃の追分宿(いまの長野県北佐久郡軽井沢町追分)で、宿に泊まっていた赤報隊の隊士たちに、小諸藩を中心とする信州の兵が襲いかかりました。軽井沢から駆けもどった隊士が反撃し、宿場は火に包まれて11軒が焼けます。これが「追分の戦い」(追分戦争)です。

このとき赤報隊の隊長・相楽総三は、弁明のために隊をはなれて西へ向かっていました。隊長のいない間に、味方のはずの新政府から「偽官軍」とされた隊士たちが、新政府に従う藩に討たれた—それが追分の戦いでした。赤報隊の始まりから終わりまでは「赤報隊とは」にまとめています。この記事では、追分の一夜だけを取り出して、どの藩がどれだけの兵で、どう戦ったのかを、進軍図と表で解説します。

目次

追分の戦いとは?ひとことで言うと

東山道総督府から「偽官軍」と名指しされた赤報隊(嚮導隊)の北信分遣隊を、小諸藩・上田藩と幕府領の御影陣屋の兵が、追分宿で夜襲した戦いです。赤報隊は一度は押し返しましたが、そのあと岩村田で降伏し、分遣隊を率いた桜井常五郎らは追分で首を斬られました。

日時 慶応4年2月17日の夜〜18日の未明(1868年3月11日)。多くの本は「2月17日」としますが、当時の届け書には「18日未明」とあります
場所 信濃国佐久郡の追分宿(現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分)。中山道と北国街道の分かれ道にある宿場
赤報隊側 赤報隊(嚮導隊)の北信分遣隊。追分の宿に泊まっていた隊士と、碓氷峠・軽井沢から駆けつけた隊士
攻めた側 小諸藩(牧野家)を中心に、上田藩(松平家)の兵、幕府領・御影陣屋の手勢、農兵
兵力(おおよそ) 攻めた側 約300人 対 赤報隊 数十人(駆けつけた隊士は約30人)
結果 宿場の11軒が焼失。赤報隊は金原忠蔵が深手を負って死に、白川千代麿らが捕らえられた。隊はそのあと岩村田藩に降伏した

なぜ追分で戦いが起きたのか

碓氷峠をめざした赤報隊

赤報隊は、鳥羽・伏見の戦いのあと、西郷隆盛らの内意を受けて相楽総三が近江で旗を揚げた部隊です。新政府の先鋒として中山道を東へ進み、道々で「年貢を半分にする」と触れて回りました。のちに東山道総督府の下で「嚮導隊」と名を改めています。

相楽がねらったのは、信濃と上野の境にある碓氷峠でした。ここを押さえれば、江戸と北陸・信濃との行き来を断つことができます。下諏訪まで進んだ本隊から、北へ分かれて佐久・追分方面へ向かったのが「北信分遣隊」です。

碓氷峠をめざした赤報隊の進軍図
碓氷峠をめざした赤報隊(慶応4年2月)。下諏訪の本隊から北信分遣隊が中山道を東へ進んで追分に陣を置き、碓氷峠を神祇隊が押さえた。小諸・上田・松代などには隊士を送った(イメージ)

桜井常五郎と年貢半減

北信分遣隊の中心にいたのが、桜井常五郎です。佐久郡春日村(いまの佐久市)の村役人の家に生まれ、剣術道場を開いていた人物で、江戸で相楽と知り合っていました。地元の生まれである常五郎は、追分宿に陣を置き、小諸藩・上田藩・松代藩や幕府領の中之条陣屋に隊士を送って新しい政治に従うよう求めます。さらに幕府領の御影陣屋(いまの小諸市御影新田)に周辺83か村の庄屋を集めて、年貢半減を告げました。

碓氷峠には、白川伯王家の白川千代麿を押し立てた「神祇隊」が置かれました。峠の西の軽井沢・沓掛・追分の三宿は、赤報隊の手の中にあったことになります。

2月10日の回章

ところが新政府は、年貢半減の約束をまもなく取り消します。2月10日、東山道総督府は信州の諸藩に回章(回覧の通達)を出し、赤報隊は官軍の名をかたる「偽官軍」だから捕らえよ、と命じました。そのころ相楽総三は総督府に呼び出され、隊を下諏訪に残して西へ向かっていました。

回章を受けた信州の藩にとって、赤報隊はもう「新政府の先鋒」ではなく、取り締まるべき相手になりました。小諸藩は、つい先日まで年貢半減を触れて回っていた隊士たちを、自分の領地のすぐそばで討つことになります。

両軍の顔ぶれと兵力

攻めた側(信州の藩と幕府領の陣屋)

藩・陣屋 大名家・石高 藩主 この戦いでの動き
小諸藩 牧野家
1万5千石
牧野康済 攻めた側の中心。油屋・大黒屋に泊まる隊士を夜明け前に襲った
上田藩 松平(藤井)家
5万3千石
松平忠礼 兵を出して小諸藩とともに追分を攻めた
御影陣屋 幕府領(代官所) ― 陣屋の手勢と農兵を出した。のちに白川千代麿を捕らえ、桜井常五郎らを預かった
岩村田藩 内藤家
1万5千石
内藤正誠 戦いには加わらず、逃れてきた隊士の降伏を受け入れて城内で預かった
安中藩 板倉家
3万石
板倉勝殷 碓氷峠の東、横川の関所で赤報隊の使者2人を斬った

赤報隊(嚮導隊)の北信分遣隊

人物 どんな人か この戦いでどうなったか
桜井常五郎 北信分遣隊の隊長。佐久郡春日村の生まれ 宿所の大黒屋を襲われて捕らえられ、3月5日に追分で斬首
金原忠蔵 嚮導隊の隊士 追分で捕らえられて深手を負い、助からないと見た仲間の大木四郎が介錯した。31歳
西村謹吾 嚮導隊の隊士 碓氷峠・軽井沢から精鋭を率いて追分に駆けもどり、反撃した
白川千代麿 神祇官の長・白川伯王家の人。碓氷峠の「神祇隊」に奉じられた みずから槍をとって戦ったが、はぐれて御影陣屋の手勢に捕らえられた
小林六郎・中山仲 北信分遣隊を率いた隊士 捕らえられ、3月5日に桜井とともに追分で斬首

兵力を比べる

攻めた側 赤報隊
兵力 約300人 数十人。追分に泊まっていた隊士と、軽井沢から駆けつけた約30人
兵の中身 小諸藩・上田藩の藩兵に、陣屋の手勢と農兵が加わった寄せ集め 浪士や地元の農民出身者が多い草莽の隊。地元・佐久の者もいた
大義名分 東山道総督府の「偽官軍を捕らえよ」という回章 新政府の先鋒として年貢半減を触れたという自負。しかし「官軍之御印」は渡されていなかった
指揮 小諸藩が中心となって夜明け前に宿を襲った 隊長の相楽総三は留守。追分・碓氷峠・軽井沢に隊が分かれていた

どちらがどんな銃や大砲を持っていたかは、はっきりした記録が見つかりませんでした。数では攻めた側が10倍近くありましたが、のちに見るように、駆けつけたわずかな隊士に崩されています。

戦いの流れ

追分の戦いの進軍図
追分の戦いの進軍図。小諸・上田と御影陣屋の兵が追分宿の赤報隊を襲い、軽井沢から隊士が駆けつけて反撃。隊はそのあと岩村田で降伏した(イメージ)

2月17日夜〜18日未明:油屋・大黒屋への夜襲

追分宿では、赤報隊の隊士たちが油屋・大黒屋などの旅籠に分かれて泊まっていました。そこへ夜明け前、小諸藩の兵が、上田藩の兵や御影陣屋の手勢・農兵とともに押し寄せます。不意をつかれた隊士たちは捕らえられ、傷を負いました。桜井常五郎が宿所にしていた大黒屋も襲われています。

中之条陣屋に送られた当時の届け書は、この夜明けの出来事を、小諸藩が油屋・大黒屋に泊まっていた嚮導隊の者を討ち取ろうと攻めかけた、と伝えています。

18日:軽井沢から駆けもどる

追分宿の夜襲と炎上のイメージイラスト
雪の残る追分宿で、駆けもどった隊士と信州の兵が入り乱れ、宿場が燃える(イメージ)

宿から逃れた一人が軽井沢へ走り、追分の異変を知らせました。碓氷峠と軽井沢にいた隊士たちは峠を下り、追分へ急ぎます。斥候として先に出た小林六郎は、追分の手前で全身血まみれになって戻り、「上意」と叫んで襲いかかられたと伝えました。

西村謹吾は精鋭20人ほどを率いて斬りこみます。届け書によれば、駆けつけた隊士はおよそ30人。勝ったと思って気をゆるめていた小諸藩の兵は、この反撃に崩れて四方へ逃げ散りました。宿場には火が放たれ、11軒が焼けました。届け書は、そのありさまを「目もあてられぬ」と書いています。

宿場を取りもどした隊士たちは、捕らえられていた金原忠蔵を見つけます。しかし深手を負っていて助かる見込みはなく、仲間の大木四郎が介錯しました。31歳でした。白川千代麿はみずから槍をとって戦いましたが、仲間とはぐれ、御影陣屋の手勢に捕らえられて牢に入れられます。

横川の関所で

同じころ、碓氷峠の東では、安中藩から「勤王の誓詞」を受け取るために使者に出た丸尾清(21歳)と佐々木陽次郎(17歳)が、横川の関所で安中藩士と斬りあいになり、討たれました。峠の東でも西でも、赤報隊はもう味方として扱われていなかったのです。

戦いのあと

岩村田で降伏する

追分を押し返した隊士たちは、南の岩村田宿まで進みました。そこへ岩村田藩の重臣が現れ、東山道総督府の回章を示します。嚮導隊を「偽官軍」として取り押さえよ、という命令でした。ほかの藩の領地へ移れば、また攻められるおそれがある—そう説かれた隊士たちは、岩村田藩に降伏します。降伏したあとは岩村田の城内で謹慎し、毎晩酒肴が出るなど、扱いはていねいだったと伝わります。

3月5日、追分で斬首

3月3日、相楽総三は下諏訪のはずれで、ほかの7人とともに首を斬られました。その2日後の3月5日、捕らえられていた桜井常五郎・小林六郎・中山仲の3人が、追分で斬首されます。追分宿の西のはずれ、中山道と北国街道の分かれ道「分去れ」の近くに、刑場の跡があります。

小諸藩のその後

追分の夜襲を率いた小諸藩は、勝ちきったわけではありません。夜明け前に隊士を討ち取りはしたものの、軽井沢から駆けつけたわずか30人ほどに崩されて逃げ散り、追分を奪い返されています。隊士たちが最後に降伏した相手も、小諸藩ではなく岩村田藩でした。藩主の牧野康済は、そのあとこの戦いを理由に新政府にとがめられ、捕らえられています。偽官軍を討てという命令に従ったはずが、罰を受けたのです。康済は碓氷峠の守りなどで働いて許されましたが、藩はその直後に家中の争い(小諸騒動)が再燃し、明治元年11月には家老らが斬られる事件まで起きました。

小諸城の大手門
小諸城の大手門(筆者撮影)
小諸城の三之門
小諸城の三之門(筆者撮影)

この戦いが示したもの

追分の戦いは、死者の数でいえば、ほかの戊辰戦争の戦いにくらべてずっと小さな戦いです。それでも、この一夜には、明治維新のねじれが詰まっているように思います。

赤報隊は、新政府の内意を受けて年貢半減を触れて回りました。新政府はその約束が都合悪くなると、回章一枚で赤報隊を「偽官軍」に変えてしまいます。そして実際に刀を抜いたのは新政府の兵ではなく、ついこの間まで幕府の側にいた信州の小藩でした。小諸藩にしてみれば、新政府に従う姿勢を見せるための戦いだったはずです。しかもその小諸藩は、わずかな隊士に追分を奪い返されたうえ、あとでこの戦いをとがめられています。だれが官軍でだれが賊軍かを決める物差しが、わずか数週間で何度も変わっていたことがわかります。

そしてもう一つは、隊長の不在です。相楽総三が弁明のために隊をはなれているあいだに、追分の隊士たちは討たれ、降伏し、首を斬られていきました。自分の帰りを待つ隊士たちが追分でどうなったのかを、下諏訪で捕らえられた相楽がどこまで知っていたのかはわかりません。

現地を歩く ― 追分の戦いの史跡

  • 追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町追分):中山道の宿場町。隊士が泊まった油屋は、のちに堀辰雄らの文学者に愛された旅館として知られます(いまの建物はのちに建て替えられたもの)。宿場の中に追分宿郷土館があります
  • 分去れ(軽井沢町追分):宿場の西のはずれ、中山道と北国街道の分かれ道。道標や石仏が並び、近くに桜井常五郎らが斬られた刑場の跡があります
  • 小諸城(懐古園)(長野県小諸市):追分を攻めた小諸藩・牧野家の城。大手門と三之門が残ります
  • 魁塚(長野県諏訪郡下諏訪町):相楽総三ら8人がまつられた塚。くわしくは「赤報隊とは」の記事で紹介しています

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 「召捕之風間御注進」(慶応4年2月、中之条陣屋への届け書)県立長野図書館所蔵
  • 『嚮導隊士西村謹吾等書翰』(相楽総三あて)の内容を紹介したブログ「赤報隊戦記(59)追分宿の戦い」
  • Wikipedia「赤報隊」「桜井常五郎」「小諸藩」「追分宿」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。小諸城の写真は筆者撮影

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