生野の変とは?平野国臣が但馬で挙兵し、わずか3日で崩れた「維新の魁」を図解でわかりやすく

生野代官所跡に立つ生野義挙碑

文久3年(1863)10月、但馬の生野で、尊王攘夷の志士たちが兵を挙げました。中心となったのは筑前の脱藩浪士・平野国臣、主将は七卿落ちで長州へ逃れていた公家の沢宣嘉です。彼らは幕府の生野代官所を占拠し、近くの村々から2000人ともいわれる農兵を集めました。ところが、挙兵からわずか3日で一行は崩れ、多くの志士が命を落とします。

この記事では、生野の変(生野義挙)を、なぜ但馬で兵を挙げたのか、生野代官所の占拠から崩壊までの3日間に何が起きたのか、そして志士たちのその後までを、進軍図を使ってわかりやすく解説します。2か月前に大和で起きた天誅組の変に続く、もうひとつの「倒幕のさきがけ」です。

目次

生野の変とは?ひとことで言うと

八月十八日の政変で京都を追われた尊攘派が、巻き返しをはかって但馬の生野で起こした挙兵です。平野国臣らは公家の沢宣嘉を主将に迎え、幕府の生野代官所を占拠して農兵を集めました。しかし、出石藩・姫路藩などの兵が迫ると、主将の沢が夜のうちに本陣を抜け出し、だまされたと怒った農民たちが逆に志士たちを襲いました。挙兵はわずか3日で崩れ去ります。

期間 文久3年(1863)10月12日〜14日ごろ。わずか3日
場所 但馬国 生野(現在の兵庫県朝来市生野町)
義挙勢 主将・沢宣嘉、平野国臣・北垣晋太郎・美玉三平・河上弥市(南八郎)ら。三田尻を出たのは37人。集まった農兵は約2000人とも
幕府側 出石藩 約900人、姫路藩 約1000人など、幕府の命を受けた近くの諸藩
結果 義挙勢は崩壊。河上弥市らは妙見山で自刃し、美玉三平らは農民に討たれる。平野国臣は捕らえられ、翌年の禁門の変のさなかに京都の獄で殺される

なぜ但馬で兵を挙げたのか

八月十八日の政変と、天誅組の挙兵

文久3年8月18日、京都で八月十八日の政変が起き、長州藩と尊攘派の公家たちは朝廷から追い出されました。三条実美・沢宣嘉ら7人の公家は、長州へ落ちていきます(七卿落ち)。その前日には、大和で天誅組が五條代官所を襲って挙兵していました。

筑前の脱藩浪士・平野国臣は、このとき朝廷の使いとして五條へ向かい、天誅組の首脳たちと会っています。しかしすぐに政変の知らせが届き、平野は形勢を立て直すため大和を離れました。天誅組はその後、高取城攻めに失敗し、9月下旬に壊滅します。

平野国臣
平野国臣

但馬で農兵を集める計画

平野国臣が目をつけたのが但馬でした。但馬の豪農出身の北垣晋太郎や、薩摩出身の美玉三平は、外国船に備えるための農兵を村々で組織しようとしていました。この農兵を義兵として立ち上がらせ、尊攘派の巻き返しの火種にしようと考えたのです。

9月19日、平野と北垣らは但馬で会合を開き、10月10日に兵を挙げることを決めました。続いて長州の三田尻へ向かい、七卿のひとり沢宣嘉を主将に迎えます。公家を旗頭にいただけば、挙兵は朝廷の意にかなうものとして人々を集められるはずでした。ただ、長州藩は藩としてこの挙兵に加わることには慎重でした。

沢宣嘉
七卿のひとり、沢宣嘉

10月12日、生野代官所の占拠

生野の変の進軍図
生野の変の進軍図。三田尻を出た志士たちが播磨に上陸して生野代官所を占拠し、出石藩・姫路藩の兵が迫るなかで崩れていった(イラスト)

三田尻から播磨へ

10月2日、沢宣嘉と平野国臣ら37人が三田尻を船で出ました。そのなかには、高杉晋作の幼なじみで、奇兵隊の2代目総督の座をなげうって加わった長州の河上弥市(南八郎)ら、血気さかんな浪士たちもいました。一行は10月8日に播磨に上陸し、生野へ向かいます。

三田尻から船で播磨へ向かう生野挙兵の一行(イラスト)
三田尻から瀬戸内海を渡り、播磨へ向かう一行(イラスト)

天誅組の壊滅を知って

10月11日、一行は生野の手前の延応寺に本陣を置きました。このとき、大和の天誅組がすでに壊滅していたことが伝わります。呼応するはずの相手を失ったいま、挙兵を取りやめるべきではないかという声も上がりました。しかし河上弥市らの強い意見が通り、計画どおり兵を挙げることになりました。

河上弥市(南八郎)
河上弥市(南八郎)

戦わずに代官所を手に入れる

10月12日の未明、一行は生野に入り、幕府の生野代官所を占拠しました。生野は幕府の財政を支えた銀山の町で、代官所はその要です。ちょうど代官が出張中で守りが手薄だったため、一行は一戦も交えずに代官所を手に入れました。

その日の昼ごろ、沢宣嘉の名で村々に呼びかけを出すと、約2000人もの農民が集まったと伝えられます。ここまでは、平野たちの思い描いたとおりでした。

生野代官所に集まる農民たちと、布告を掲げる志士たち
10月12日、生野代官所に集まる農民たちと、布告を掲げる志士たち(イラスト)

崩壊—わずか3日で消えた義挙

迫る諸藩の兵と、主将の脱出

代官所が占拠されたという知らせに、近くの諸藩はすぐに動きました。10月13日、北の出石藩から約900人、南の姫路藩から約1000人の兵が生野へ向かいます。大和の天誅組を失った志士たちに、もはや援軍の当てはありませんでした。

その13日の夜、主将の沢宣嘉が、挙兵の取りやめを唱えていた人々とともに、ひそかに本陣を抜け出してしまいます。旗頭を失ったことで、集まった農民たちは大きく動揺しました。

妙見山の自刃

河上弥市ら十数人は、生野の北、山口村の妙見山に陣を構えていました。ところが、主将が逃げたと知った農民たちは、だまされたと怒り、逆に志士たちに襲いかかります。河上らは妙見山のふもとに戻り、そこで自刃しました。美玉三平らも、農民たちの手にかかって討たれています。

妙見山の上から迫る農民たちを見下ろす志士たち
妙見山の上から、迫る農民たちを見下ろす河上弥市ら志士たち(イラスト)

平野国臣の最期

平野国臣は兵を解き、鳥取へ逃れようとしましたが、途中で捕らえられ、京都の六角獄に送られました。そして翌元治元年(1864)7月、禁門の変で京都が火に包まれたさなか、獄中の志士たちとともに幕吏の手で斬られました。37歳でした。

戦いの流れ(文久3年)

月日 出来事
8月17日大和で天誅組が挙兵する
8月18日京都で八月十八日の政変。沢宣嘉ら七卿が長州へ落ちる
9月19日平野国臣・北垣晋太郎らが但馬で会合し、挙兵を決める
9月下旬天誅組が鷲家口で壊滅する
10月2日沢宣嘉・平野国臣ら37人が三田尻を出る
10月8日播磨に上陸する
10月11日延応寺に本陣を置く。天誅組の壊滅を知るが、挙兵を決める
10月12日生野代官所を占拠し、農兵約2000人を集める
10月13日出石藩・姫路藩が出兵。夜、沢宣嘉が本陣を抜け出す
10月14日ごろ河上弥市らが妙見山で自刃。義挙勢は崩壊する
元治元年7月禁門の変のさなか、平野国臣が六角獄で斬られる

生き残った志士たちのその後

挙兵に加わった志士のなかには、生きのびた人もいました。北垣晋太郎(のちの北垣国道)は長州へ逃れ、のちに戊辰戦争を戦います。明治になってからは京都府知事として琵琶湖疏水の工事を進め、北海道庁長官もつとめました。抜け出した主将の沢宣嘉も、明治の新政府で長崎府知事や外務卿を歴任しています。

一方、河上弥市の親類にあたる長州の山田顕義は、明治になって司法大臣となり、明治25年(1892)、生野銀山を訪れていたさなかに倒れて亡くなりました。生野の地は、不思議なめぐりあわせで長州の志士たちと結ばれています。

山田顕義が最期を迎えた生野銀山は、いまは「史跡 生野銀山」として公開され、江戸時代から掘り進められた坑道のなかを歩くことができます。幕府の財政を支えたこの銀山があったからこそ、志士たちは生野を挙兵の地に選んだのでした。

この戦いが示したもの

生野の変は、天誅組の変と同じく、ほんの数日で終わった挙兵でした。旗頭として迎えた公家は真っ先に逃げ、集めた農民は志士たちに刃を向けました。勢いだけで集めた人の心は、形勢が悪くなればたちまち離れていく。生野の変は、天誅組以上にそのことを痛ましく示しています。

それでも、幕府の代官所を占拠したこの挙兵は、天誅組とともに「維新の魁(さきがけ)」と呼ばれるようになりました。ここで散った志士たちの志は、生き残った人々に受け継がれ、5年後の戊辰戦争へとつながっていきます。

現地を歩く—生野代官所跡と生野銀山

兵庫県朝来市生野町の生野代官所跡には、「生野義挙趾」の大きな石碑と、町の文化財に指定された「生野義挙碑」が立っています。近くの生野銀山では、江戸時代から掘り続けられてきた坑道を歩くことができます。北へ車で30分ほどの竹田城跡とあわせてめぐる旅は、【現地取材】天空の城・竹田城跡から生野銀山へ|維新の魁となった「生野義挙」を歩くで紹介しています。

生野代官所跡に立つ「生野義挙趾」の碑
生野代官所跡に立つ「生野義挙趾」の碑

筆者の感想

生野代官所の跡で「生野義挙趾」の大きな碑を見上げたとき、この人たちは本当に「維新の魁(さきがけ)」となって散っていったのだなあと思いました。挙兵からわずか3日。主将には逃げられ、頼みにした農民には刃を向けられ、妙見山で自刃した若い志士たちのことを思うと、なんともやりきれない気持ちになります。

あと少し、あと5年ほど生きのびていたら、御一新(明治維新)を自分の目で見ることができたのに。平野国臣も、河上弥市も、さぞ無念だったことでしょう。けれども同時に、自分たちが「さきがけ」となれたことは、彼らにとって本望だったのかもしれないとも思うのです。

たとえ自分たちがここで倒れても、この挙兵は無駄にはならない。必ず歴史は変わる。彼らはそう信じて行動していたのだと思います。実際に、生き残った北垣晋太郎は戊辰戦争を戦い、明治の世で京都を立て直しました。生野で散った志は、たしかに次の時代へと受け継がれていったのですね。

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参考資料

  • 『生野町史』
  • 『朝来町史』
  • 春山育次郎『平野国臣伝』

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです

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