箱根戦争とは?遊撃隊と林忠崇はなぜ箱根で戦ったのか—小田原藩の寝返り、山崎の戦い、伊庭八郎が片腕を失った日を図解でわかりやすく

雨上がりの箱根湯本の街道と早川の橋に陣を構える遊撃隊

慶応4年(1868)5月、東海道の要の箱根で、旧幕府の遊撃隊と、小田原藩・新政府軍が戦いました。これが箱根戦争で、5月26日に箱根湯本の山崎で行われた戦いから、箱根山崎の戦いとも呼ばれます。江戸城の明け渡しに納得できなかった遊撃隊は、上総請西藩の藩主・林忠崇とともに房総から相模へ渡り、箱根の関所をおさえて新政府軍の行く手をふさごうとしましたが、味方についたはずの小田原藩に背かれて敗れました。剣の名手・伊庭八郎が片腕を失ったのもこの戦いです。

この記事では、遊撃隊がなぜ箱根をめざしたのか、小田原藩がなぜ一度は味方し、すぐに敵に回ったのか、そして5月26日の山崎の戦いと、その後の遊撃隊のゆくえまでを、進軍図を使ってわかりやすく解説します。房総での転戦については遊撃隊と林忠崇の房総転戦とは?で紹介しています。

目次

箱根戦争とは?ひとことで言うと

江戸城の明け渡しのあと、新政府に従わなかった旧幕府の遊撃隊が、請西藩主の林忠崇とともに箱根の関所をおさえようとして、小田原藩や新政府軍と戦った戦いです。遊撃隊は一度は小田原藩を味方に引き入れましたが、新政府に問いつめられた小田原藩がすぐに寝返り、5月26日の山崎の戦いで敗れた遊撃隊は、熱海から船で房総へ退きました。

期間 慶応4年(1868)5月19日ごろ〜5月27日ごろ。山崎の戦いは5月26日
場所 相模国 箱根の関所、箱根湯本の山崎・三枚橋(現在の神奈川県足柄下郡箱根町)
旧幕府側 遊撃隊(人見勝太郎・伊庭八郎ら)と請西藩主・林忠崇の一隊。真鶴に上陸したときは100人あまりで、沼津で加わる者を集めて200人ほどになったといわれる
新政府側 小田原藩兵 約1000人と、因州(鳥取)・長州・備前(岡山)・津の4藩からなる新政府軍 約2000人
結果 遊撃隊の敗北。伊庭八郎が左腕を失う。遊撃隊は熱海から船で房総の館山へ退き、のちに奥州へ渡る。箱根では40人ほどが亡くなったり行方知れずになったりしたといわれる
箱根戦争の進軍図。房総から真鶴に渡った遊撃隊は、伊豆・沼津を経て箱根へ向かい、敗れて熱海から船で退いた
箱根戦争の進軍図。房総から真鶴に渡った遊撃隊は、伊豆・沼津を経て箱根へ向かい、敗れて熱海から船で退いた(イラスト)

なぜ遊撃隊は箱根をめざしたのか

江戸城の明け渡しに従わなかった遊撃隊

遊撃隊は、将軍の身辺を守るために腕の立つ旗本や御家人を集めた部隊で、剣術の名門・伊庭家の跡取りである伊庭八郎や、のちに箱館で活躍する人見勝太郎らが加わっていました。慶応4年4月、江戸城が新政府軍に明け渡されると、遊撃隊の一部はこれに従わず、江戸を出て房総へ向かいます。

藩主みずから脱藩した林忠崇

房総で遊撃隊が助けを求めたのが、上総の小さな藩・請西藩の若い藩主、林忠崇でした。忠崇は閏4月3日、藩主の身でありながら藩士を率いて陣屋を出て遊撃隊に加わり、藩主みずから脱藩するという前代未聞の決断を下します。一行は内房の諸藩をまわって兵や武器を集めたのち、館山から船で相模湾を渡り、真鶴に上陸しました。

真武根陣屋跡に立つ石柱と碑、説明板(千葉県木更津市)
請西藩の真武根陣屋跡(千葉県木更津市)。林忠崇はここから藩士を率いて遊撃隊に加わった

沼津で隊を立て直す

真鶴に上がった一行は、伊豆や御殿場をめぐりながら加わる者を集め、沼津に陣を置いて隊を組み直しました。伊庭八郎はこのとき第二軍の隊長になっています。遊撃隊がめざしていたのは、東海道の箱根をおさえ、江戸と西国を結ぶ道を断つことでした。箱根で新政府軍を食い止めるという考えは、江戸城が明け渡される前に小栗忠順がとなえた作戦とも重なっています。

請西藩の位置と遊撃隊の進路図
請西藩(真武根陣屋)の位置と遊撃隊の進路。上総の請西から館山へ南下し、船で相模湾を渡って真鶴に上陸した(イラスト)

小田原藩はなぜ寝返ったのか

箱根の関所での撃ち合いと和睦

5月19日、江戸で彰義隊が上野戦争を起こしたという知らせが届くと、遊撃隊は沼津から東へ動き、箱根の関所に迫りました。関所を守っていた小田原藩は、新政府に従う立場から遊撃隊を通そうとせず、撃ち合いになります。ところが翌朝、小田原藩は一転して和睦を申し入れ、遊撃隊を城下に迎え入れました。小田原藩の大久保家は譜代大名で、藩のなかには徳川家に味方すべきだという声も根強くあったのです。

小田原城の天守。箱根戦争のとき、小田原藩は旧幕府と新政府のあいだで揺れ動いた
小田原城の天守。箱根戦争のとき、小田原藩は旧幕府と新政府のあいだで揺れ動いた

新政府に問いつめられて敵に回る

しかし、上野の彰義隊はわずか1日で敗れていました。さらに、小田原藩兵をねぎらいに箱根へ向かっていた新政府の軍監・中井範五郎が、小田原藩兵と遊撃隊の一団に出くわして斬られるという事件まで起きます。小田原藩が遊撃隊と手を結んだことを知った新政府は、軍を差し向けて藩の責任を問い、江戸から戻った家臣も新政府に従うよう強く説きます。追いつめられた小田原藩は数日のうちに態度をひるがえし、今度は新政府軍の先手として遊撃隊に銃口を向けることになりました。

両軍の兵力と装備—200人対3000人

箱根戦争は、数のうえでは最初から勝負が見えていた戦いでした。遊撃隊は、真鶴に上陸したときは100人あまりで、勝山藩や館山藩などの脱藩者を加えても200人ほどだったといわれます。これに対して、山崎の戦いで遊撃隊に向かってきたのは、小田原藩兵が約1000人、さらに江戸から送られた因州・長州・備前・津の4藩からなる新政府軍が約2000人で、あわせて15倍ほどの兵力差がありました。

遊撃隊・請西藩小田原藩・新政府軍
兵の数約200人小田原藩兵 約1000人、新政府軍 約2000人
おもな武器小銃と刀。山崎の高台に土俵を積んで砲台を築く小銃と大砲。小田原藩には大砲を扱う大砲方がいた
戦いぶり高台から撃ち下ろして一時は持ちこたえるが、弾を撃ちつくして退く向かいの山々から撃ちかけ、長州兵の号令で斬り込んで白兵戦に持ちこむ
おもな死傷山崎から三枚橋のあいだで22人の遺体が見つかる。勝山藩士は32人のうち15人が戦死したとも小田原藩は戦死8人・負傷22人とも伝わる(資料により異なる)

遊撃隊が頼みにしたのは、腕の立つ旗本や御家人をそろえた隊の質と、山崎の高台という地の利でした。それでも、弾薬の補給が続かない少人数の部隊では、数で押し寄せる敵を長くは食い止められなかったのです。

5月26日、山崎の戦い

箱根湯本の三枚橋と山崎の位置図
箱根湯本の三枚橋と山崎の位置。小田原から攻め上る小田原藩兵を、遊撃隊は山崎の高台で迎え撃った(イラスト)

遊撃隊は、箱根湯本の入り口にあたる山崎の高台に砲台を築いて待ち構えました。対する小田原藩の兵は、向かいの山々から撃ちかけ、早川にかかる三枚橋のあたりでは刀や槍での斬り合いになります。この乱戦のなかで、伊庭八郎は足を撃たれたうえ、背後から小田原藩士に斬りつけられて左腕をほとんど断ち切られました。伊庭は振り向きざまに相手を討ち果たし、家来に担がれて陣に戻ったと伝えられていて、その後は片腕のまま戦い続けることになります。

山崎の戦いのイメージ
山崎の戦いのイメージ。早川にかかる三枚橋をはさみ、山崎の高台に陣取った遊撃隊と小田原藩兵が撃ち合った(イラスト)

弾を撃ちつくした遊撃隊は持ちこたえられず、湯本の町に火を放って箱根宿の方へ退きました。この戦いで、箱根では両軍あわせて40人ほどが亡くなったり、行方知れずになったりしたといわれています。

熱海から房総へ、そして奥州へ

敗れた遊撃隊は、山あいの間道をたどって熱海へ抜け、網代の浦から船で房総の館山へ渡りました。その後、遊撃隊の多くは榎本武揚の旧幕府艦隊の船に乗って奥州へ向かい、林忠崇も奥羽越列藩同盟の地で戦いを続けます。

旧幕府海軍の旗艦・開陽丸
旧幕府海軍の旗艦・開陽丸。美嘉保丸を引いて北へ向かった(写真:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

深手を負った伊庭八郎は、榎本艦隊の輸送船・美嘉保丸に乗って北へ向かいましたが、8月、開陽丸に引かれて進むうちに鹿島灘で嵐にあい、引き綱が切れた美嘉保丸は銚子の犬吠埼の近くで座礁してしまいます。岸にたどり着いた伊庭は、ひそかに江戸へ戻って横浜に身を隠し、その年の11月にアメリカの船で箱館へ渡りましたが、翌年の箱館戦争で傷を負い、五稜郭で命を落としました。

銚子沖で座礁する美嘉保丸
嵐のなか犬吠埼の近くで岩場に乗り上げた美嘉保丸のイメージ。伊庭八郎もこの船に乗っていた(イラスト)

一方の小田原藩は、一度は遊撃隊に味方したことを新政府にとがめられ、家老らが謹慎や切腹を命じられました。どちらの側につくかで揺れた小田原藩の苦しみは、関東の譜代大名が置かれた立場をよく表しています。

箱根戦争の流れ(慶応4年)

4月11日江戸城が新政府軍に明け渡される
閏4月3日林忠崇が請西藩の陣屋を出て遊撃隊に加わる
閏4月館山から船で相模の真鶴に渡り、伊豆・御殿場をめぐって沼津で隊を立て直す
5月15日上野戦争。彰義隊が1日で敗れる
5月19日ごろ遊撃隊が箱根の関所に迫り、小田原藩と撃ち合う。翌日、小田原藩が和睦する
5月下旬新政府に問いつめられた小田原藩が、ふたたび新政府側につく
5月26日山崎の戦い。伊庭八郎が左腕を失い、遊撃隊は敗れる
5月下旬遊撃隊が熱海へ退き、網代から船で館山へ渡る

この戦いが示したもの

箱根戦争は、わずか数日で終わった小さな戦いでしたが、江戸城が明け渡されたあとも、徳川家のために戦おうとする人々がいたことをはっきりと示しています。藩主の身で脱藩した林忠崇や、片腕を失っても戦い続けた伊庭八郎の生き方は、のちに多くの人の心を打ちました。同時に、新政府と旧幕府のあいだで揺れ、最後は寝返るほかなかった小田原藩の姿は、勝ち負けがはっきりしないなかで生き残りを図った多くの藩の苦しい選択を映しています。

現地を歩く—箱根湯本の山崎と三枚橋

箱根登山鉄道の箱根湯本駅から国道1号を小田原方面へ少し下ると、早川に三枚橋がかかり、そのすぐ先の山崎のあたりが戦いの舞台です。北条早雲ゆかりの早雲寺も、このときの戦火で焼けたと伝えられています。小田原の町を歩くなら、【現地取材】小田原城を歩くもあわせてどうぞ。

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文・写真:佐藤秀信
※進軍図・位置図・場面の絵はイラストです

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