咸臨丸事件とは?嵐で清水港に流れ着いた咸臨丸が白旗をかかげながら襲われ、清水次郎長が乗組員を葬った出来事を図解でわかりやすく

清水港で白旗をかかげる咸臨丸に、新政府軍の軍艦と兵が迫る(イラスト)

明治元年(1868)9月18日、駿河の清水港に停泊していた旧幕府の軍艦・咸臨丸が、新政府軍の軍艦3隻に襲われました。咸臨丸は大砲をすでに陸に揚げ、白旗をかかげていましたが、乗り込んできた兵に副長の春山弁蔵らが斬られ、遺体は海に投げ捨てられます。「賊軍の遺体に触れる者は同罪」とされ、だれも手を出せないなか、遺体を引き上げて葬ったのが清水次郎長でした。咸臨丸事件です。

この記事では、かつて太平洋を渡った咸臨丸が、なぜ嵐の海を流されて清水港にたどりついたのか、なぜ降伏の意思を示していたのに攻められたのか、そして次郎長と山岡鉄舟の「壮士墓」の話までを、航路図を使ってわかりやすく解説します。

清水港で白旗をかかげる咸臨丸に、新政府軍の軍艦と兵が迫る(イラスト)
明治元年9月18日、清水港。白旗をかかげた咸臨丸に、新政府軍の軍艦が砲撃しながら迫り、兵が小舟で乗り込もうとする(イラスト)
目次

咸臨丸事件とは?ひとことで言うと

榎本武揚の旧幕府艦隊とともに品川沖を出た咸臨丸が、嵐ではぐれて清水港に入り、修理をしているところを新政府軍の軍艦に襲われて奪われた事件です。抵抗する力のない船の乗組員が討たれ、その遺体を地元の侠客・清水次郎長が葬ったことで、いまも語り継がれています。

日時明治元年(慶応4年)9月18日(1868年11月2日)の午後
場所駿河国の清水港(いまの静岡市清水区)
両者旧幕府艦隊の咸臨丸 対 新政府軍の富士山丸・飛龍丸・武蔵丸
咸臨丸の指揮艦長の小林文次郎は駿府藩の役所に出かけていて留守。船に残っていたのは副長の春山弁蔵ら
咸臨丸の状態機関を外した帆船で、マストも折れて修理中。大砲や武器は陸に揚げていた
結果咸臨丸は奪われ、春山ら残っていた乗組員が討たれる。遺体は海に捨てられ、清水次郎長が引き上げて葬る

咸臨丸とは—太平洋を渡った船の晩年

咸臨丸は、幕府がオランダに注文し、安政4年(1857)にできあがった木造の軍艦です。長さ50mほど、重さ620トンほどで、100馬力の蒸気機関と3本のマストを持っていました。万延元年(1860)には、木村喜毅や勝海舟、福澤諭吉らを乗せて、日本の軍艦として初めて太平洋を渡っています。

太平洋を渡る咸臨丸(鈴藤勇次郎画)
万延元年、太平洋を渡る咸臨丸。乗組員の鈴藤勇次郎が描いた(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

しかし、その後は練習艦や運送船として使われ、戊辰戦争のころには機関を外され、帆だけで走る船になっていました。軍艦として戦う力はほとんど残っていなかったのです。

なぜ咸臨丸は清水港に流されてきたのか

咸臨丸事件の航路図。品川沖から房総沖の嵐、下田、清水港へ
咸臨丸がたどった航路。品川沖を出た榎本艦隊は房総沖で台風に遭い、咸臨丸は下田へ流されたあと清水港に入った。新政府軍の軍艦は江戸湾から清水港へ向かった(イラスト)

8月19日、榎本艦隊が品川沖を出る

江戸城が明け渡されたあとも、海軍副総裁の榎本武揚は、旧幕府の艦隊を新政府に渡しませんでした。慶応4年8月19日の夜、榎本は開陽丸・回天丸・蟠竜丸・千代田形・神速丸・長鯨丸・美賀保丸・咸臨丸の8隻を率いて品川沖を出ます。めざしたのは、新政府軍と戦っていた奥羽越列藩同盟の仙台でした。

品川沖を出る旧幕府艦隊8隻(小杉雅之進画)
品川沖を出る旧幕府艦隊8隻。開陽丸の機関方だった小杉雅之進の絵で、煙突のない2隻の帆船が美賀保丸と咸臨丸とされる(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

機関のない咸臨丸と美賀保丸は自力では速く走れないため、蒸気で動く軍艦に綱で引かれて進みました。咸臨丸を引いたのは回天丸だったといわれます。

房総沖の嵐で艦隊がばらばらに

品川を出て2日ほどたった8月21日ごろ、艦隊は房総半島の沖で台風に襲われました。荒れ狂う波のなかで引き綱が切れ、咸臨丸はマストを折られて流されます。美賀保丸も銚子の沖で座礁して失われ、旗艦の開陽丸も舵を壊すなど、艦隊はばらばらになりました。

房総沖の嵐で引き綱が切れ、マストを折られて流される咸臨丸(イラスト)
房総沖の嵐。引き綱が切れ、マストを折られた咸臨丸が流されていく(イラスト)

下田から清水港へ

流された咸臨丸は、伊豆半島の先の下田港にたどりつきました。そこへ、同じくはぐれていた蟠竜丸がやってきて、咸臨丸を清水港まで引いていきます。9月2日、2隻は清水港に入りました。咸臨丸は船を直すため、大砲や武器を陸に揚げます。9月8日には年号が明治に改まりました。蟠竜丸は修理を終えると、ひそかに清水港を出て仙台へ向かいましたが、修理の遅れた咸臨丸は港に残されました。

駿府の徳川家と清水港

このころの清水港は、ただの港ではありませんでした。江戸城を明け渡した徳川家は、5月に徳川家達を当主として駿府(いまの静岡市)70万石に移されることになり、江戸の旧幕臣たちが家族ぐるみで続々と駿河へ移ってきていました。その玄関口のひとつが清水港です。清水次郎長も、子分たちと炊き出しをして移住の人々を助けていました。

新しくできた駿府藩(静岡藩)は、新政府ににらまれれば、せっかく残された徳川家がつぶされかねない立場です。そこへ、新政府に背いて脱走した艦隊の船が入ってきたのですから、藩はひどく困りました。艦長の小林文次郎は、船の扱いについて話し合うため駿府藩の役所に出向いていました。一方で藩は、咸臨丸の乗組員に宿を貸すことを禁じ、かくまった者は本人だけでなく村役人まで罰するという触れを出したといわれます。

9月18日、白旗の咸臨丸が襲われる

9月18日の午後2時ごろ、新政府軍の富士山丸が、飛龍丸と武蔵丸を連れて清水港に入ってきました。咸臨丸は大砲を陸に揚げ、マストも折れたままで、とても戦える状態ではありません。乗組員は白旗をかかげて、戦う意思がないことを示しました。

それでも新政府軍は砲撃しながら近づき、咸臨丸に乗り込んできます。艦長の小林は留守で、船にいた副長の春山弁蔵らが応じましたが、次々に斬られました。討たれた乗組員の遺体は海に投げ捨てられ、咸臨丸はそのまま奪われます。この日に命を落とした乗組員は、20人ほどだったともいわれます。

皮肉なことに、咸臨丸を襲った富士山丸は、もとは幕府の軍艦でした。江戸城の明け渡しのとき、榎本が新政府に渡した4隻のうちの1隻です。かつての仲間の船が、咸臨丸を追ってきたのでした。くわしくは戊辰戦争の海軍を比べるの記事でも紹介しています。

なぜ降伏していたのに攻めたのか

白旗をかかげた船を攻めたことは、当時からひどいふるまいと受け取られていました。それでも新政府軍が攻めた理由として、次のようなことが考えられます。

  • 新政府にとって、榎本艦隊は朝廷に背いて脱走した「賊」でした。正式な敵として降伏を受け入れる相手ではなく、とらえるべき反逆者とみていたのです
  • 奥羽ではまだ戦いが続いており、榎本艦隊が仙台に加われば新政府軍には大きな脅威でした。はぐれた船を見のがすわけにはいかなかったのです
  • 駿府には徳川家と旧幕臣が集まっていました。見せしめとして厳しく臨むことで、旧幕臣たちの動きをおさえるねらいもあったと考えられます

いずれにしても、戦う力のない船の乗組員を斬り、遺体まで放り出したことは、勝った側の驕りとして、のちのちまで語られることになります。

清水次郎長と「壮士墓」

港に投げ捨てられた遺体は、何日も波間を漂っていました。新政府軍は「賊軍の遺体に触れる者は同罪とする」としていたため、だれも手を出せません。そこで動いたのが、清水の侠客・清水次郎長(本名・山本長五郎)でした。次郎長は夜のうちに子分たちに舟を出させ、遺体を引き上げると、港の向島の松の根もとに手厚く葬りました。名前がわかっているのは、春山弁蔵ら7人です。

夜の清水港で、咸臨丸の乗組員の遺体を引き上げる清水次郎長と子分たち(イラスト)
夜の清水港。次郎長と子分たちが舟を出し、波間に漂う咸臨丸の乗組員を引き上げる(イラスト)
清水次郎長(山本長五郎)の写真
清水次郎長(山本長五郎)。明治12年(1879)ごろ(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

このことで次郎長は駿府藩の役所に呼び出され、とがめられます。そのとき次郎長は「死ねばみな仏だ。仏に官軍も賊軍もない」と答えたと伝わります。この話を聞いて心を動かされたのが、駿府藩の幹事役だった山岡鉄舟でした。鉄舟は次郎長が建てた墓に「壮士墓」の三文字を書いて贈ります。これをきっかけに、鉄舟と次郎長の生涯にわたる付き合いが始まりました。

山岡鉄舟の肖像
山岡鉄舟(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

次郎長はその後も乗組員の供養を続け、明治20年(1887)には興津の清見寺に「咸臨丸乗組員殉難碑」を建てました。

その後の咸臨丸

奪われた咸臨丸は新政府のものとなり、北海道開拓使の輸送船として使われました。明治4年(1871)9月20日、北海道へ移り住む旧仙台藩の人々401人を乗せて箱館から小樽へ向かう途中、木古内のサラキ岬の沖で座礁し、沈んでしまいます。乗っていた人々は地元の人たちに助けられ、全員が無事でした。平成18年(2006)、サラキ岬の沖で見つかった錨が咸臨丸のものと発表され、いまは岬に「咸臨丸終焉の地」の碑が立っています。

一方、咸臨丸と別れた榎本艦隊は仙台に入り、そのあと蝦夷地へ渡って箱館戦争を戦いました。

咸臨丸事件までの流れ(慶応4年・明治元年)

月日出来事
4月11日江戸城が明け渡される。榎本は富士山丸など4隻だけを新政府に渡す
5月24日徳川家達が駿府70万石に移されることが決まる
8月19日榎本艦隊8隻が品川沖を出る
8月21日ごろ房総沖で台風。咸臨丸は引き綱が切れて流される
8月下旬咸臨丸が下田にたどりつく。蟠竜丸と出会う
9月2日咸臨丸と蟠竜丸が清水港に入る
9月8日明治に改元
9月18日富士山丸・飛龍丸・武蔵丸が清水港に入り、咸臨丸を襲う
9月下旬次郎長が遺体を葬り、駿府藩に呼び出される。山岡鉄舟が「壮士墓」の字を贈る

この事件が示したもの

ひとつめは、勝者の側にも人の情けを忘れなかった人がいたということです。新政府ににらまれる危険をおかして遺体を葬った次郎長と、それを認めて墓に字を書いた鉄舟。二人の行動は、敵か味方かで人を分けた時代に、死者を等しく弔うことの大切さを示しました。

ふたつめは、戊辰戦争がもう「戦わない者」にまで刃を向ける段階に入っていたことです。白旗をかかげた船を襲ったことは、内戦の厳しさをあらわしています。

みっつめは、一隻の船がたどった運命の重さです。日本人の手で太平洋を渡った誇りの船が、最後は味方からはぐれ、かつての仲間の船に追われ、遠く北海道の海に沈みました。咸臨丸の歩みは、そのまま幕府海軍の栄光と終わりを映しているように見えます。

現地を歩く—壮士墓と清見寺

  • 壮士墓(静岡市清水区築地町):次郎長が咸臨丸の乗組員を葬った墓。山岡鉄舟の筆による「壮士墓」の碑があり、いまも地元の人々による供養が続けられています
  • 清見寺(静岡市清水区興津):次郎長が建てた咸臨丸乗組員殉難碑があります
  • 梅蔭禅寺(静岡市清水区南岡町):清水次郎長の墓がある寺です
  • 咸臨丸終焉の地(北海道木古内町サラキ岬):咸臨丸が沈んだ海を望む岬に、記念碑とモニュメントが立っています

筆者の感想

(筆者の感想をここに入れます)

あわせて読みたい

参考資料

  • 文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』
  • 静岡市「壮士墓」案内板
  • 木古内町「咸臨丸終焉の地」案内

文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです

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