伊勢亀山藩/石川家6万石:石川成之 譜代大名のため佐幕派・尊皇派に割れた亀山藩

目次

伊勢亀山藩の歩み

享保二年(1717年)十一月一日、「松平乗邑」が山城淀藩へ移封となります。その後「板倉重治」が入封するが第2代藩主「板倉勝澄」の時に「石川総慶」と領地交代という形で備中松山藩へ移封となりました。こうして「石川総慶」が六万石で入封したことで藩主家の支配が定着しました。この石川氏は「徳川家康」に仕えた「石川数正」の系統ではなく、数正の叔父「石川家成」の系統です。

伊勢亀山藩/場所・アクセス・地図 石川家6万石:石川成之 譜代大名のため佐幕派・尊皇派に割れた亀山藩【幕末維新写真館】

慶応四年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では、譜代大名のために藩論が尊皇派と佐幕派に分裂して対立しました。はじめ旧幕府側に与したが、やがて新政府軍に恭順しました。その後は桑名藩や鳥羽藩への出兵や東征に藩兵を派兵しました。

明治二年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主「石川成之」は亀山藩知事に任じられ、明治四年(1871年)七月十四日、「廃藩置県」で伊勢亀山藩は廃藩となり、亀山県、安濃津県を経て三重県に編入されました。

東海道の宿場・亀山藩

伊勢亀山藩は、伊勢国鈴鹿郡(現在の三重県亀山市)に置かれた六万石の藩で、亀山城を居城とし、藩主は譜代の石川家でした。東海道の宿場・亀山宿を擁し、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈を押さえる要地を治めた、重要な藩でした。

藩論の分裂

幕末の亀山藩は、譜代大名でありながら、旧幕府を支持する佐幕派と、天皇を奉じる尊皇派とに藩論が割れ、去就をめぐって揺れ動きました。街道の要衝という土地柄、京都の政局の影響を直接受けやすかったことも、藩内の対立を深めた一因でしょう。譜代の藩が抱えた幕末の葛藤を、よく示す一藩です。

領地交換の相手が、幕末最後の老中首座を出した

伊勢亀山に石川家が入ったのは延享元年のことですが、その経緯が変わっています。備中松山の板倉家と、領地をそっくり交換したのです。

石川総慶が備中松山から伊勢亀山へ、板倉勝澄が伊勢亀山から備中松山へ。—そしてその板倉家から、幕末に一人の大物が出ます。

板倉勝静(かつきよ)。備中松山藩主にして、幕府最後の老中首座です。大政奉還のときの老中筆頭であり、鳥羽・伏見ののちも徳川慶喜に従い、さらに仙台から蝦夷へ渡って箱館まで戦い抜きました。その藩政を支えたのが、陽明学者の山田方谷です。

—もし領地交換がなければ、板倉勝静は伊勢亀山の藩主だったかもしれません。一枚の書類で、藩の運命は入れ替わります。

★街道の藩の宿命

伊勢亀山は東海道の亀山宿を擁し、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈のど真ん中にありました。

これは利点であり、同時に致命的な弱点でもあります。京都の政局が、時差なしに直接届いてしまいます。情報も、兵も、圧力も、いちばん早く来る場所にいたのです。

慶応四年、戊辰戦争が始まると亀山藩は尊皇派と佐幕派に分裂しました。譜代である以上、旧幕府を見捨てられない者がいます。一方で、朝敵になることを恐れる者もいます。—はじめ旧幕府側に与し、やがて新政府軍に恭順します。

そのあとが厳しい。恭順した亀山藩は、桑名藩や鳥羽藩への出兵に藩兵を出し、東征にも従いました。同じ伊勢の、同じ譜代の城下へ兵を向けたのです。

隣の津藩が鳥羽・伏見で旧幕府軍の背後を撃ったのも、吉田藩が尾張の斡旋で早々に降りたのも、根は同じ。街道にいる藩は、動きを間違えると即座に踏み潰されます。

関連する現地取材

三重県に残る城郭建造物は、亀山の多門櫓だけです

亀山市の公式ページは、旧亀山城多門櫓についてはっきりこう書いています。「三重県で唯一現存する城郭建造物」。津城にも伊賀上野城にも桑名城にも、江戸期の建物は残っていません。三重県内で唯一残っている城の建物が、六万石の亀山城の櫓です。

三重県指定史跡、指定は昭和二十八年(1953年)五月七日。築造は寛永九年(1632年)頃とされます(亀山市観光協会は「十八世紀後半に武器庫として建てられ」とし、年代に食い違いがあります)。観光協会によれば明治期には綿織物工場として使われたそうです。

この櫓は近年大きな修理を受けました。平成二十三年(2011年)八月から約一年半におよぶ「平成の大修理」が行われ、平成二十五年(2013年)四月七日に修理完成記念式。亀山市は「江戸時代後期の姿に復原されました」としています。

天守を間違えて解体した、という話

その亀山城には有名な逸話があります。亀山市観光協会の記述をそのまま引きます。

「寛永九年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて解体してしまった」。

丹波の亀山と伊勢の亀山を取り違えて、こちらの天守を壊してしまったという話です。ただし観光協会自身がこれを「伝承」「言い伝え」として扱っており、一次史料の提示はありません。伝承として伝わる話という位置づけで読むのが正確です。

城そのものの築城は天正十八年(1590年)、岡本宗憲によるとされ、本丸・二之丸・三之丸と天守を備えていました。

板倉家は二度入っています

亀山藩の藩主家の変遷を並べると、この藩の性格が見えてきます。

関盛信 → 岡本良勝(二万二千石、慶長五年改易)→ 関一政(三万石)→ 松平(奥平)忠明(五万石)→ 三宅康信(元和五年、一万石→一万二千石)→ 本多俊次(五万石、寛永十三年)→ 石川憲之(五万石、寛文九年)→ 板倉重常(五万石、寛文九年〜宝永七年)→ 松平乗邑(六万石、享保二年)→ 板倉重治(再封)→ 石川総慶(六万石、延享元年)。

つまり板倉家は重常と重治の二度入っています。そして最後に入った石川家は、石川数正の系統ではなく数正の叔父・石川家成の系統で、譜代大名です。

領地交換の理由は、相手の病気でした

当ページ本文は延享元年の領地交換に触れていますが、亀山市歴史博物館の企画展「城主の交換転封 ― 備中松山と伊勢亀山 ―」が、その理由まで書いています。

延享元年(1744年)三月一日、石川総慶と板倉勝澄が領地を交換する転封が実施されました。石川家は備中松山から伊勢亀山へ、板倉家は伊勢亀山から備中松山へ。石川総慶は正徳元年(1711年)に「城州淀から備中松山へ所替」を命じられており、三十三年間松山城主を務めたあとの転封でした。

そして転封の理由です。板倉勝澄は享保九年(1724年)から亀山城主でしたが、「勝澄が長病であったため、要地の鎮めとしがたいという理由で」動かされました。東海道の要衝を病身の城主に任せておけない、という判断です。領地規模は両者とも約五万石で、板倉家の亀山領は「城付き八十五ヵ村」から「八十六ヵ村五万石」と記録されています。

百二十年後、その備中松山から幕末最後の老中首座が出ることになります。街道の要衝を守れるかどうかという理由で行われた交換が、そういう形で幕末につながりました。

藩主は十三歳でした

幕末の藩主石川成之について、年齢を押さえておきます。

安政二年(1855年)六月二十四日生、明治十一年(1878年)六月二十一日没。慶応元年(1865年)、兄の総脩が早世したためその養子となって家督を継ぎました。

つまり慶応四年(1868年)の時点で満十二歳から十三歳、数えで十四歳です。東海道の要衝を押さえる六万石の藩の判断を、この年齢の藩主の名で下していたことになります。

戊辰での立場も、単純に「新政府側」ではありませんでした。記録はこう伝えています。「はじめ旧幕府側に与したが、やがて官軍に恭順した。しかし新政府によって旧幕府に協力した罪を問われ、桑名藩や鳥羽藩への出兵、東征に参加することを余儀なくされている」(この記述は出典が弱いものです)。恭順したうえで、罰として同じ伊勢の藩へ兵を出させられた。当ページ本文の「藩論の分裂」はこういう結末を迎えました。

成之は明治二年の版籍奉還で亀山藩知事、明治四年の廃藩置県で免職。明治五年(1872年)に家督を養子の石川成徳(石川鶴翁の四男)に譲って隠居しました。二十三歳で亡くなっています。爵位は石川成徳が明治十七年(1884年)に子爵です。

藩校は明倫舎です

亀山市歴史博物館の説明では、天明五年(1785年)、亀山藩が南崎町の家を読書場とし、これを藩校として「明倫舎(めいりんしゃ)」と名付けました。そして「明倫舎は明治二年(1869年)に組織が変わって『明倫館』となります」。亀山市立図書館の一階エントランスホールに、その「明倫館」の額があります。

亀山蝋燭は幕末の産業ではありません

亀山といえばロウソクを思い浮かべる方も多いと思いますが、これは幕末とは関係がありません。

亀山市歴史博物館の記述は明快です。「1927年(昭和二年)、現在の栄町に宮大工の頭領であった谷川兵三郎がローソクの製造を始めました」。谷川蝋燭製造所 → 亀山蝋燭製造所 → 亀山蝋燭株式会社 → 現在のカメヤマ株式会社という流れです。創業は昭和二年(1927年)で、藩とは百年近く離れています。

関宿 ― 東海道四十七番目の宿場

亀山藩領でいちばん残っているものは、城でも藩校でもなく宿場町です。

「亀山市関宿」は重要伝統的建造物群保存地区で、種別は宿場町、選定は昭和五十九年(1984年)十二月十日、面積は約二十五・〇ヘクタールです。

範囲は東追分から西追分までの約一・八キロ。所在地は亀山市関町の木崎・中町・新所・北裏の四地区です。三重県の解説は関宿を「旧東海道の四十七番目の宿場」で「伊勢別街道・大和街道が分岐する交通の要衝」とし、「江戸〜明治期の伝統的木造建築物が残り、戦前の建物を含めると約七割が伝統的な建築要素を保持」しているとしています。文化庁の解説は「平入二階建の町家群が軒を連ねています」と書き、旧本陣と関地蔵院(関の地蔵)を含みます。関地蔵院の本堂・鐘楼・愛染堂は国の重要文化財です。

なお、亀山市公式の表現は「関宿は、東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並み」です。「東海道五十三次の宿場で唯一」という限定の言い方ではないので、引用するときはこの形が正確です。

城下にあるもの

亀山市の指定文化財から、東海道の藩らしいものを挙げておきます。

京口門跡は県指定史跡で、寛文十二年(1672年)築造。東海道亀山宿の西端の防御拠点です。江戸口門跡は延宝元年(1673年)築造、亀山宿東町にあり枡形の構造をとります。宿場の東西に門を構えた城下でした。

野村一里塚は国史跡、昭和九年(1934年)一月二十二日指定。亀山市は「三重県下で唯一原形をとどめる一里塚」としています。正法寺山荘跡は国史跡、昭和五十六年(1981年)一月二十四日です。

もう一つ、亀山の名を有名にした事件があります。元禄十四年(1701年)、伊勢亀山城下で石井半蔵・源蔵の兄弟が、父と兄の敵である赤堀源五右衛門を二十八年目に討ちました。「元禄曽我」と呼ばれ、浄瑠璃などに脚色されました。二十八年かけた仇討ちが、東海道の宿場で決着したわけです。

県の変遷は、廃藩置県のあと亀山県 → 安濃津県を経て三重県に編入されました。安濃津県が三重県に改称されるのは明治五年三月十七日付、県庁が四日市へ移ったことによるものです。

伊勢亀山藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将—石川家成

幕末まで亀山を治めた石川家の祖は、石川家成です。天文三年(1534年)に三河国西野(今の愛知県西尾市)で生まれ、母は徳川家康の生母・於大の方の姉でした。つまり家康の母方のいとこにあたります。家康が今川義元のもとで人質だった頃から仕え、丸根砦の攻略、三河一向一揆の鎮圧、姉川の戦いなどに加わり、東三河の酒井忠次と並んで西三河の旗頭を務めました。家康の信頼はたいへん厚く、「家康無二の忠臣」といわれます。

石川家の歩み—大垣から亀山へ

家成の子・石川康通は、慶長六年(1601年)に美濃大垣藩5万石の初代藩主となりました。康通が亡くなると家成が藩主に戻り、家成の死後は外孫で養子の石川忠総が家を継ぎます。忠総は家康の重臣・大久保忠隣の次男で、これ以降の石川家は、家名は家成の系統でも、血筋は大久保家から養子に入った家となりました。忠総は大坂の陣で手柄を立て、豊後日田、下総佐倉、近江膳所と移りました。

その後、石川憲之の時代の慶安四年(1651年)に、本多俊次と入れ替わる形で伊勢亀山に5万石で入ります。このときは寛文九年(1669年)に山城淀へ移り、さらに備中松山を経て、延享元年(1744年)の領地交換で再び亀山に戻ってきました。石川家にとって亀山は二度目の城地でした。

本家と分家—神戸藩から下館藩へ

石川家には分家の大名がありました。伊勢国の神戸藩(今の三重県鈴鹿市)を治めた石川家です。3代目の石川総茂は若年寄などを務め、神戸藩主を47年務めたのち、享保十七年(1732年)に常陸国の下館藩(今の茨城県筑西市)2万石へ移りました。このとき神戸の領民の多くが移封に反対し、とどまってほしいと嘆願したと伝わります。下館藩の石川家はその後、明治まで続きました。

藩政の歩み

石川家が定着した後も、藩の財政は楽ではありませんでした。第4代藩主・石川総純は米の専売や荒れ地の検地で立て直しを図りましたが、これに反対する百姓一揆が明和五年(1768年)に起こり、改革は失敗しました。幕末に近い第10代藩主・石川総禄は、洋式の軍備を取り入れ、茶の栽培を奨励しています。

領地のようす

幕末の領地の大半は、城のある伊勢国鈴鹿郡(74村)でした。ほかに伊勢国の三重郡と河曲郡にそれぞれ5村がありました。さらに、遠く離れた備中国の阿賀郡(3村)と上房郡(9村)にも領地を持っていました。備中は、石川家がかつて治めた備中松山のある国です。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、6万石のこの藩はおよそ1,410人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「伊勢亀山藩」「石川家成」「石川忠総」「石川総茂」「下館藩」

場所・アクセス・地図

あわせて読みたい(現地取材)

伊勢亀山の現地を歩いた記録

伊勢亀山藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

東海の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次