秋田戦争とは?庄内藩・盛岡藩が久保田藩に攻め込んだ戊辰戦争の戦いを図解でわかりやすく

戊辰戦争で、東北のなかでいち早く新政府側に付いた藩があります。秋田の久保田藩です。その久保田藩の領地に、南から庄内藩が、東から盛岡藩が攻め込み、秋田の地は二か月にわたって戦場になりました。それが「秋田戦争」です。

この記事では、秋田戦争がなぜ起き、どう戦われ、どう終わったのかを、進軍図とあわせて解説します。庄内藩の戦いとしては、天童の戦い、新庄の戦いに続く三本目です。

目次

秋田戦争とは?ひとことで言うと

奥羽越列藩同盟を抜けて新政府側に付いた久保田藩(秋田藩)と、それを討とうとした庄内藩・盛岡藩などの同盟軍との戦いです。庄内藩は連戦連勝で久保田城の目前まで迫りながら、同盟の崩壊によって兵を引きました。

期間慶応4年7月〜9月(1868年8月〜11月)
場所出羽国秋田郡・仙北郡・平鹿郡・雄勝郡・由利郡など(現在の秋田県のほぼ全域)
同盟軍庄内藩(山道口・海道口に各約1000名)、盛岡藩(楢山佐渡、約2000名)、仙台藩ほか
新政府軍久保田藩、佐賀藩・薩摩藩・長州藩・小倉藩などの援軍、本荘・亀田・矢島などの由利の諸藩
結果新政府軍の勝利。ただし庄内藩は戦場では負けないまま撤退し、9月に降伏

なぜ秋田が戦場になったのか

同盟を抜けた久保田藩

久保田藩は、はじめは奥羽越列藩同盟に加わっていました。しかし藩内には新政府に従うべきだという声が強く、慶応4年7月4日、ついに同盟からの離脱を決めます。

このとき久保田城下に来ていた仙台藩の使者、志茂又左衛門ら11人が殺害され、首がさらされました。同盟の盟主である仙台藩にとって、これは許しがたい仕打ちでした。秋田戦争は、この事件から始まります。

庄内藩にとっての秋田

庄内藩にとって、北の久保田藩が新政府側に付いたことは、背中に敵を抱えることを意味しました。しかも新政府軍は、秋田に兵を集めて南へ押し返そうとしていました。庄内藩は守りに入るのではなく、自分から攻め込む道を選びます。

両軍の顔ぶれと兵力

同盟軍新政府軍
主力庄内藩:山道口(一番大隊・松平甚三郎、二番大隊・酒井玄蕃)、海道口(三番・四番大隊)
盛岡藩:楢山佐渡
仙台藩・米沢藩・上山藩など
久保田藩
佐賀藩(田村乾太左衛門ら)、薩摩藩(大山綱良)、長州藩(桂太郎)、小倉藩
本荘藩・亀田藩・矢島藩・弘前藩など
兵力庄内藩は山道口・海道口に各約1000名、盛岡藩は約2000名。ほかに庄内藩は農兵2000名余りを動員全体で約1万5000名と推定される
総督―奥羽鎮撫総督・九条道孝、副総督・沢為量

数では新政府軍が大きく上回っていました。それでも庄内藩が押し続けられたのは、豪商・本間家の財力でそろえた新式の銃と、藩士だけでなく農民や町人まで組み込んだ動員の厚さがあったからです。

戦いの流れ ― 南と東から秋田へ

秋田戦争 進軍図(慶応4年7月〜9月)。庄内軍は山道口と海道口の二手で北上し、盛岡藩は東から大館を攻めた
秋田戦争 進軍図(慶応4年7月〜9月)。庄内軍は山道口と海道口の二手で北上し、盛岡藩は東から大館を攻めた

7月:新庄を落とし、秋田への道を開く

7月6日、庄内藩は軍を二つに分けて久保田領へ向かいます。内陸を進む山道口の一番・二番大隊と、日本海沿いを進む海道口の三番・四番大隊です。

ところが山道口の行く手では、新庄藩が新政府側に戻り、7月11日には金山で仙台藩を主力とする同盟軍が新政府軍に敗れます。庄内の両大隊は引き返して新庄を攻め、7月14日に新庄城を落としました(新庄の戦い)。これで秋田へ北上する道が開けます。

8月:山道口、横手・大曲へ

8月に入ると、山道口の庄内勢は破竹の勢いで北上します。

  • 8月1日:院内が同盟軍の手に落ちる
  • 8月5日:湯沢を制圧
  • 8月11日:横手城が落ちる
  • 8月13日:角間川で新政府軍を破り、大曲へ。雄勝・平鹿の両郡と仙北郡の南半分が同盟軍のものになる

角間川の戦いでは、先に仙台勢が崩れたところを、酒井玄蕃の二番大隊が追撃して大勝しています。ここまで、庄内勢は一度も大きな負けをしていません。

8月:海道口、由利の諸藩を押さえる

日本海沿いでも庄内勢は勝ち続けます。7月28日に矢島、8月1日に塩越を押さえ、8月5日の上条の戦いでは、弘前・本荘・亀田などの兵と4時間ほど撃ち合ったすえに退けました。8月6日には本荘城が落ち、亀田藩は庄内藩に降伏します。三番・四番大隊は亀田の城下に入り、8月17日には久保田藩を長浜あたりまで追い詰めました。

8月:盛岡藩、東から大館へ

東からは盛岡藩が攻め込みます。家老の楢山佐渡が率いる盛岡勢は、8月9日ごろに戦端を開き、十二所から扇田へと進みました。一度は兵を引いたものの、8月20日に再び攻め寄せ、8月22日に大館城を総攻撃します。城を預かっていた佐竹大和は城に火を放って退き、大館城は落ちました。

8月下旬:神宮寺と角館で止まる

勢いに乗った山道口の庄内勢でしたが、8月下旬に入ると壁にぶつかります。神宮寺の攻略は8月20日・22日と続けて失敗し、8月25日から攻めた角館も、新政府軍の固い陣地と、風雨で増水した玉川に阻まれて3日目にあきらめました。東から合流するはずだった盛岡勢も、ついに現れませんでした。

9月:椿台の大会戦

9月7日から8日にかけて、二番大隊は雄物川を強行渡河して北へ進み、9月9日には久保田城下の南東、椿台の目前にまで迫ります。9月10日から12日にかけて、庄内勢は椿台に三方から総攻撃をかけ、糠塚山を奪いました。

しかし新政府軍は、佐賀藩の援軍と新式銃を得て持ちこたえます。9月12日には海道口の三番大隊が長浜に攻めかかりましたが撃退されました。久保田城まで、あと一歩のところでした。

東の盛岡勢も押し返される

同じころ、盛岡勢も押し返されていました。8月29日にはきみまち阪方面への総攻撃が退けられ、9月2日の岩瀬の戦いで敗れて撤退します。米代川を渡るときに多くの犠牲を出し、9月6日には大館も久保田藩に奪い返されました。

戦いのあと ― 負けなかった庄内藩の撤退

同盟の崩壊で兵を引く

庄内藩を止めたのは、秋田の戦場ではなく、遠く離れたほかの戦線でした。8月28日に米沢藩、9月12日に上山藩が降伏し、9月13日には同盟の盟主である仙台藩も新政府に恭順します。

9月14日、庄内勢は軍議を開き、秋田から撤退して自分の領地を守ることを決めました。撤退を支えるため、9月15日から16日には刈和野を攻めて取り返しています。最後まで、引き際でさえ勝っていたのです。

降伏と、それぞれのその後

9月17日、鶴岡城で降伏が決まり、9月23日までに庄内勢は全軍が領内に戻りました。9月27日、鶴岡で降伏の手続きが行われます。新政府軍の参謀・黒田清隆が立ち会い、その背後には西郷隆盛の意向がありました。庄内藩は減封されたものの、処分は思いのほか寛大なものでした。

一方の盛岡藩は9月25日に降伏し、領地を取り上げられて白石へ移されます。秋田に攻め込んだ責任を負った楢山佐渡は、のちに盛岡で処刑されました。

勝った側の久保田藩も無傷ではありませんでした。領地の3分の2が戦火にかかり、人家の4割が焼けたとされます。新政府側で戦った佐賀藩も、この戦いで多くの戦死者を出しました。

この戦いが示したもの

秋田戦争は、「戦場で負けなかった藩が、戦争には負けた」戦いでした。庄内藩は天童・新庄・横手と勝ち続け、久保田城の目前まで迫りました。それでも、同盟という大きな枠組みが崩れた瞬間に、勝ち続けた軍は引き返すしかなかった。一つひとつの戦いに勝つことと、戦争に勝つことは違うのだと、この戦いは教えてくれます。そして、負けなかった庄内藩が寛大な処分を受け、のちに西郷隆盛との深い縁が生まれていくことになります。

現地を歩く ― 久保田城跡(千秋公園)

久保田城跡(千秋公園)に再建された御隅櫓。天守を持たなかった久保田城の物見の櫓を、展望台として再建したもの
久保田城跡(千秋公園)に再建された御隅櫓。天守を持たなかった久保田城の物見の櫓を、展望台として再建したもの

秋田戦争で庄内勢が目指した久保田城は、関ヶ原の戦いのあと常陸から移された佐竹氏が築いた城です。天守も高い石垣も持たない、土塁と堀の城でした。いまは千秋公園として整備され、物見の櫓だった御隅櫓が展望台として再建され、表門も復元されています。

筆者の感想

久保田城跡は、お堀が広く、思っていたより規模の大きな城でした。遺構はいくらか残っていますが、門や櫓のような建物は再建の御隅櫓と表門くらいで、往時の姿を思い描くには少し物足りなさもあります。

佐竹氏は関ヶ原のあと秋田へ移されましたが、二十万石という正式な石高が決まったのは、移ってから六十年あまり後の寛文4年(1664)のことだったそうです。秋田というと、ついつい戦国大名・秋田氏のお城というイメージがありますが、その秋田氏は佐竹氏と入れ替わるように常陸の宍戸へ移り、さらにまさかの陸奥の三春へ移っています。その三春藩は戊辰戦争で同盟から新政府側に寝返り、「三春狐」という言葉まで生まれました。常陸と出羽を入れ替わった二つの家が、戊辰戦争でそれぞれどんな道を選んだのか。考えてみると面白いものです。

じつは、わたしの母方の先祖は、常陸の真壁氏に仕えた重臣でした。真壁氏は佐竹氏に従って秋田へ移りましたが、うちの先祖は常陸に残り、名主になったようです。本家はいまも真壁(現在の桜川市)にあり、初代の真壁町長も出しています。秋田へ行った家と、常陸に残った家。久保田城を歩きながら、そんな分かれ道のことも思いました。

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筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。

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文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです

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