矢島藩の歩み
慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」において、新政府軍に対抗すべく「奥羽越列藩同盟」が結成されます。矢島藩12代当主「生駒親敬」は当初同盟軍に加盟したが、久保田藩からの誘いを受け、家中を勤王論に統一し新政府軍に与しました。これにより庄内藩からの攻撃を受け、親敬は矢島陣屋を自焼して久保田藩へ撤退します。
新政府軍の援軍が到着すると久保田藩や本庄藩らと共に奥羽各地の鎮撫につとめました。戦後の高直しの結果、矢島藩は一万五千二百石の諸侯に列し、讃岐守を称することを許されます。翌年、戊辰戦争での功績により賞典禄千石を下賜されます。しかし明治四年七月十四日(1871年8月29日)の「廃藩置県」で矢島県となり、同年十一月二日には秋田県へ統合されました。
名家・生駒氏が治めた矢島藩
矢島藩は、出羽国由利郡(現在の秋田県由利本荘市矢島)に置かれた一万石の藩で、藩主は生駒家でした。生駒家は、もとは讃岐高松十七万石を領した大名でしたが、御家騒動によって出羽矢島へと大きく減らされて移った、由緒ある名家の末裔です。
庄内藩の攻撃と陣屋自焼
戊辰戦争において矢島藩は新政府軍に与しました。このため、奥羽越列藩同盟の強豪・庄内藩の攻撃を受け、陣屋を自ら焼いて退くという苦しい戦いを強いられます。小藩が大藩の兵鋒にさらされた、戊辰戦争の非情さを伝える一藩です。
幕末の生駒家は、藩ではありませんでした
ここは注意が要ります。生駒家はもともと讃岐高松十七万石余の大名でしたが、寛永十七年の生駒騒動で改易され、堪忍料として出羽由利郡の矢島に一万石を与えられました。ところが万治二年に当主が弟へ二千石を分けたため八千石となり、大名の資格を失って旗本の交代寄合になります。安永九年に国入りを許されて参勤交代を始めましたが、身分は旗本のままでした。生駒家が大名に戻って矢島藩が立つのは、戊辰の戦功で高直しを受けた慶応四年十一月のことです。石高は一万五千二百石、同時に讃岐守を称することを許されました。高松を失ってから二百年余りののちでした。
七月二十八日、陣屋が焼けました
慶応四年五月三日の白石での調印には矢島も加わっていましたが、七月四日に久保田藩が同盟を離れると、これに従って新政府側へ転じます。七月八日に出兵の命が下り、二十七日から二十九日にかけて庄内藩の四番大隊が攻め寄せました。鳥海山を越える道筋には新徴組が加えられ、奇襲を受けた矢島では民家も寺も焼けています。二十八日に陣屋は失われ、生駒親敬は久保田の城下へ退きました。この焼失について、由利本荘市は自焼と説明していますが、庄内側に奪われたと記す資料もあって一致していません。庄内軍はそのまま北上し、八月六日には本荘藩の城下に達しています。
陣屋の跡は、小学校になっています
八森城址は昭和五十一年三月に由利本荘市の史跡に指定されました。由利十二頭の一人である大井氏の古城の跡と伝えられ、応仁年間の築城といいます。現在は矢島小学校の敷地で、城内には戊辰のときの弾痕が残る老松があります。近くの歴史交流館「八森苑」は、生駒家の重臣・佐藤道益の子孫の邸宅で、国の登録有形文化財です。戊辰で焼けた屋敷の様式を取り入れて明治に建てられたため、江戸期の武家屋敷の特徴を残しています。庭は、かつて高松の栗林公園にあった先祖の庭を写したものです。
讃岐高松城を築いた生駒親正
矢島藩の生駒家の祖・生駒親正は、織田信長、ついで豊臣秀吉に仕えた武将で、秀吉の晩年には「三中老」の一人として政権を支えました。天正十五年(1587)に讃岐一国を与えられた親正は、瀬戸内海に面した地に高松城を築きます。堀に海水を引き込んだ海城で、のちに伊予の今治城、豊前の中津城とともに「日本三大水城」に数えられる城です(今治藩)。「高松」という地名も、このとき親正がつけたものと伝えられます。
関ヶ原の戦いでは、親正は西軍に、子の一正は東軍に分かれて家を守り、生駒家は高松十七万石の大名として江戸時代を迎えました。
生駒騒動と、讃岐から出羽へ
ところが四代目の生駒高俊の代に、家臣団が江戸から来た家臣と古くからの家臣に分かれて激しく争う「生駒騒動」が起き、寛永十七年(1640)、幕府は生駒家の讃岐の領地を取り上げました。高俊には暮らしのために出羽の矢島で一万石が与えられ、瀬戸内の海城の主の家は、雪深い鳥海山のふもとの陣屋の主となったのです。
その後の生駒家は旗本の身分にとどまりましたが、戊辰戦争での働きによって慶応四年(1868)に大名に戻り、矢島藩が立ちました。讃岐を追われてから二百二十年余りののちのことでした。いまも矢島には生駒家の陣屋跡と、歴代の墓所が残っています。
八森陣屋の前史と、男爵になった大名家
生駒家より前の矢島
由利本荘市の資料によると、生駒家より前に矢島を治めたのは由利衆の打越光隆です。元和9年(1623)に常陸から3千石で入り、今の矢島小学校の場所に「八森陣屋」を置き、菩提寺の龍源寺もこのとき開かれました。打越氏は跡継ぎがなく寛永11年(1634)に改易され、生駒氏が入るまで矢島は幕府領で、庄内藩の預地でした。
龍源寺と高俊の墓
香川県の資料によると、生駒高俊の墓は陣屋跡近くの龍源寺の裏の墓地にあり、初代・生駒親正の墓塔を思わせる立派な五輪塔です。龍源寺は曹洞宗の寺で、戊辰戦争のあとに建て直された本堂は国の登録有形文化財です。讃岐高松17万石の大名家が、出羽の山里に眠っていることになります。
交代寄合から大名、そして男爵
生駒家は当初、江戸詰の交代寄合「表御礼衆」で、2千石を分けた弟の家は旗本として続きました。最後の藩主・生駒親敬は維新で大名に戻りましたが、明治17年に家が授かったのは子爵ではなく男爵でした。親敬の子が娘だけだったため、夫人が家督を継いだともいわれます。
考察:讃岐の大名が出羽で再起した
お家騒動で讃岐を追われた生駒家は、200年以上を交代寄合として過ごし、幕末にようやく大名へ戻りました。矢島はその長い雌伏を支えた土地です。高松と矢島をつなぐ縁は、もっと語られてよいと思います。



