鳥居耀蔵とは何をした人物か—天保の改革の「妖怪」、蘭学者を陥れ、二十三年の幽閉を生き延びた南町奉行

天保の改革で取り上げた品を前に部下へ指示する南町奉行・鳥居耀蔵のイラスト

この記事で紹介する鳥居耀蔵は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

鳥居耀蔵は、天保の改革のときの江戸の南町奉行です。老中・水野忠邦の改革を手足となって進め、町人の暮らしを厳しく取り締まり、蘭学者たちを罪に陥れました。「妖怪」と呼ばれて恐れられた人物です。改革が失敗すると職を追われ、二十年以上も讃岐の丸亀に閉じ込められましたが、明治まで生き延び、七十八歳で亡くなりました。二〇二七年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、北村一輝さんが演じます。

主人公の小栗忠順が若いころの江戸は、まさにこの鳥居が町を取り締まっていた時代でした。西洋の学問を憎んだ鳥居と、西洋の技術で国を立て直そうとした小栗。二人は、幕府の中の正反対の考え方を表しているともいえます。

目次

鳥居耀蔵とはどんな人か

  • 生まれ:寛政八年(1796年)、幕府の学問を担う大学頭・林述斎の子として生まれる
  • 養子:文政三年(1820年)、旗本・鳥居家の婿養子となる。名は忠耀、甲斐守を名乗った
  • 出世:目付をへて、天保十二年(1841年)の末に南町奉行
  • していたこと:天保の改革での市中の取り締まり、蘭学者への弾圧(蛮社の獄)
  • 失脚:弘化元年(1844年)に罷免。翌年、讃岐丸亀藩にお預けとなり、明治元年(1868年)まで幽閉
  • 最期:明治六年(1873年)、東京で死去。数え七十八歳

儒学者の家に生まれた

鳥居の父・林述斎は、幕府の学問所(のちの昌平坂学問所)を率いた儒学者です。述斎はもともと美濃の岩村藩主・松平家の生まれで、林家に養子に入った人でした。つまり鳥居は、大名家の血を引き、幕府の学問の中心の家で育ったことになります。

朱子学を正しい学問とする家で育った鳥居は、西洋の学問(蘭学)を強く嫌いました。この生い立ちが、のちの鳥居の行動を大きく決めていきます。

蛮社の獄—蘭学者を陥れる

天保九年(1838年)、目付だった鳥居は、伊豆韮山の代官・江川英龍とともに江戸湾の海岸を調べる役目を命じられます。ところが江川は、蘭学者の力を借りて西洋の測量術を使い、鳥居よりもはるかに正確な報告をまとめました。面目をつぶされた鳥居は、江川と蘭学者たちを深く恨んだと言われます。

翌天保十年(1839年)、鳥居は、蘭学者の渡辺崋山や高野長英らが幕府を批判しているとして罪をでっち上げ、二人を捕らえさせました(蛮社の獄)。崋山は国元で謹慎ののち自ら命を絶ち、長英は牢に入れられます。長英はのちに牢を脱け出し、顔を薬で焼いて逃げ続けましたが、最後は役人に踏み込まれて命を落としました。

さらに天保十三年(1842年)には、西洋砲術家の高島秋帆を、密貿易を企てたなどの疑いで捕らえています。高島が許されたのは、ペリーが来た嘉永六年(1853年)のこと。許したのは老中首座の阿部正弘でした。

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天保の改革の「手足」

老中の水野忠邦が天保の改革を始めると、鳥居はその手足となって働きます。天保十二年の末には、改革に批判的だった南町奉行の矢部定謙を追い落とし、自分がその後釜に座りました。

町奉行としての鳥居は、ぜいたくを禁じる命令を厳しく守らせました。高価な着物やかんざし、凝った菓子、芝居や寄席、錦絵など、町人の楽しみが次々に取り締まられます。おとりを使って違反者をあぶり出すようなやり方もとったため、江戸の人々から憎まれました。鳥居の名・耀蔵と、名乗りの甲斐守をつなげた「耀甲斐(ようかい)」が「妖怪」となり、あだ名になったと言われます。

同じ時期の北町奉行・遠山景元(「遠山の金さん」)は、行き過ぎた取り締まりに反対し、芝居小屋の取りつぶしなどに歯止めをかけたと伝えられます。厳しい鳥居と、町人の側に立つ遠山という対比は、のちの講談や時代劇でもよく使われました。

水野を裏切り、そして失脚

天保十四年(1843年)、水野は江戸と大坂のまわりの大名・旗本の領地を幕府に取り上げる「上知令」を出しますが、大名たちの猛反発にあいます。このとき鳥居は、反対派の老中・土井利位の側に寝返り、水野の改革の内部の資料を土井に渡したと言われます。水野は老中を辞めさせられ、改革は終わりました。

しかし翌年、水野が老中に返り咲くと、鳥居は弘化元年(1844年)九月に町奉行を罷免されます。続いて、改革の時代の不正を問われて財産を取り上げられ、弘化二年(1845年)、讃岐丸亀藩の京極家に身柄を預けられました。この年に老中首座となった阿部正弘のもとでの処分でした。

二十三年の幽閉と明治

丸亀での鳥居は、厳しい見張りのもとで暮らしました。それでも医術の心得をいかして近くの人々を診たり、漢詩を詠んだりして日を送ったと伝えられます。そのあいだに、ペリーが来て、開国し、幕府は倒れていきました。

明治元年(1868年)、新政府の恩赦で、鳥居はようやく幽閉を解かれます。ところが鳥居は「将軍家からの赦免状がない」と言って、すぐには丸亀を離れようとしなかったと言われます。江戸改め東京に戻った鳥居は、幕府が倒れたのは自分の言うことを聞かずに開国したからだ、という意味のことを語っていたとも伝えられます。

明治六年(1873年)、鳥居は数え七十八歳で亡くなりました。墓は東京・本駒込の吉祥寺にあります。

大河『逆賊の幕臣』の鳥居耀蔵

番組の発表では、鳥居耀蔵は「天保の改革で市中を厳しく取り締まり『妖怪』と呼ばれた」南町奉行と紹介されています。北村一輝さんは、将軍の家慶・家定・家茂や、老中首座の阿部正弘、徳川斉昭らとともに「江戸城で出会う人々」の一人として発表されました。

小栗の師となる儒学者の安積艮斎や、蘭学に通じた幕臣たちが登場するこの大河で、西洋を拒んだ鳥居は、物語の初めの大きな「壁」として描かれるのかもしれません。発表されたほかの登場人物は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』特集にまとめています。

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参考資料:Wikipedia日本語版「鳥居耀蔵」「蛮社の獄」「天保の改革」、NHKの番組発表ほか。年齢は数え年です。

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