2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
東京タワーのふもと、芝公園に広がる大本山増上寺。浄土宗の七大本山のひとつで、上野の寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺です。境内の奥には、二代秀忠や十四代家茂をはじめとする将軍たちと、その正室・側室が眠る「徳川将軍家墓所」があります。
幕末の視点で見ると、ここは特別な場所です。公武合体のために結ばれた十四代将軍・徳川家茂と皇女・和宮が、並んで眠っているからです。正月の参拝で訪ねた境内を、現地の説明板と増上寺の公式案内を手がかりに歩いてみました。

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この場所から、幕末はどう見えるか
- 安政五年(1858)—紀州藩主だった十三歳の徳川慶福(のちの家茂)が、十四代将軍に就きます
- 文久二年(1862)—朝廷と幕府の結びつきを強める「公武合体」策のもと、孝明天皇の妹・和宮が家茂に嫁ぎます
- 慶応二年(1866)七月—第二次長州征討のさなか、家茂は大坂城で病没。数え二十一歳でした。遺骸は江戸へ戻り、増上寺に葬られます
- 明治十年(1877)—静寛院宮(和宮)が箱根で亡くなり、本人の遺言により増上寺の家茂の隣に葬られます
- 昭和二十年(1945)—空襲で、豪華な霊廟建築の多くが焼失します
三解脱門—江戸初期から残る、増上寺の顔
日比谷通りから境内に入るとき、最初に迎えてくれるのが朱塗りの三解脱門(さんげだつもん)です。元和八年(1622)の建立で、国の重要文化財。関東大震災や東京大空襲をくぐり抜け、江戸時代初期の姿をいまに伝えています。
正月の門には、葵の紋を染め抜いた白い幕がかかっていました。ここが徳川家の寺であることを、ひと目で伝える光景です。

門の脇には「浄土宗大本山増上寺」の寺号標と、「徳川将軍家墓所拝観」の立て看板が並んでいました。

徳川将軍家墓所—家茂と和宮が並ぶ場所
眠っているのは誰か
増上寺の公式案内によると、墓所には六人の将軍(二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂)と、正室五人(秀忠夫人の崇源院、家宣夫人の天英院、家斉夫人の広大院、家定夫人の天親院、家茂夫人の静寛院宮)、側室五人(家光の側室で綱吉の生母・桂昌院、家宣の側室で家継の生母・月光院など)をはじめ、将軍の子女を含む三十八人が葬られています。
幕末に関わる人物で見ると、十二代家慶と十四代家茂がここに眠ります。一方、十三代家定と、その正室で大河ドラマでもおなじみの天璋院(篤姫)は上野の寛永寺に葬られました。十五代慶喜は将軍家の菩提寺ではなく、神式で谷中に葬られています。幕末の三人の将軍は、それぞれ別の場所に眠っているのです。
公武合体の夫婦、四年ほどの結婚生活
家茂と和宮は、ともに弘化三年(1846)の生まれの同い年です。和宮にはもともと有栖川宮熾仁親王という婚約者がいましたが、幕府の強い求めによって江戸へ下りました。政略結婚として始まった二人ですが、家茂が上洛や長州征討で江戸を離れることが多かったため、共に過ごした時間は長くありません。家茂は大坂で亡くなり、和宮は二十一歳で夫を失いました。

その和宮が、明治になってから「家茂の側に」と遺言し、夫と同列に並んで葬られたことは、増上寺の公式案内にも記されています。
戦災と改葬
かつての霊廟は、日光東照宮にも比べられるほどの壮麗な建築群でしたが、昭和二十年の空襲でその多くが焼けました。昭和三十三年(1958)には文化財保護委員会を中心に発掘調査が行われ、遺骨は火葬されたうえで現在の墓所に改葬されています。この調査の際、和宮の棺から若い男性を写した写真(ガラス板)が見つかり、家茂ではないかと言われながら、翌日には像が消えてしまったという話が伝えられています。
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空襲を逃れた霊廟の名残—水盤舎
焼失した霊廟建築のなかで、わずかに残ったものもあります。境内の一角にある水盤舎もそのひとつです。

現地の説明板には、次のように書かれていました。
- この水盤舎は、清揚院殿(三代家光の三男、甲府宰相・徳川綱重)の霊廟にあったもの
- 明治時代の解体と昭和の空襲を逃れ、現在地に移築された
- 徳川将軍家の霊廟建築を伝える、数少ない遺構のひとつである
綱重は将軍にはなりませんでしたが、子の家宣が六代将軍となっています。はがれかけた朱の塗りや、軒下に残る彫刻をよく見ると、かつての霊廟がどれほど華やかだったかを想像することができます。
歩いてみて分かったこと
「将軍の寺」は、明治以降に大きく姿を変えた
増上寺は明治のはじめ、神仏合同の教化機関「大教院」が置かれた時期があり、明治七年(1874)元日には本堂が放火で焼失しています。さらに昭和の空襲で霊廟の多くを失い、いまの大殿は昭和四十九年の再建です。江戸時代の姿をそのまま残すのは、三解脱門や水盤舎など一部に限られます。幕府が倒れたあと、将軍家の寺がどんな道をたどったかも、境内から読み取れました。
東京タワーと将軍の墓が同じ景色にある
大殿の背後には東京タワーがそびえています。かつての霊廟の跡地の一部は、戦後、公園やホテルの敷地に変わりました。江戸の将軍家と昭和の東京が、同じ景色の中に重なっているのが、増上寺ならではの眺めです。
訪ねるなら
- 大本山増上寺:東京都港区芝公園四丁目。都営三田線「芝公園駅」・「御成門駅」、都営浅草線・大江戸線「大門駅」、JR「浜松町駅」から歩いて行けます
- 徳川将軍家墓所:有料で公開。取材後に確認した増上寺の公式案内では、受付は平日11時〜15時・土日祝10時〜16時、大人500円(高校生以下無料)、火曜定休(祝日は公開)。変更されることがあるため、お出かけ前に増上寺の公式サイトでご確認ください
- 宝物展示室:墓所とのセット券があります(公式案内では1,000円)
- 掲載写真は、正月の参拝時に撮影したものです
家茂と和宮が暮らした江戸城については【現地取材】江戸城を歩く、将軍家とゆかりの深いもうひとつの寺については伝通院の現地取材で紹介しています。幕末全体の流れは幕末とは何だったのかをどうぞ。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
- 徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死
- 徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか
- 徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代
- 阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相
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あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地の説明板の記載、大本山増上寺の公式案内(徳川将軍家墓所の紹介ページ)をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
