| 茨木司 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 奥州中村 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 自刃 | ||
慶応元年に入隊しました。三条制札事件に出勤しています。近藤と伊東両方に重用されるが次第に伊東に共鳴していきます。幕臣取立てに反対し伊東ら御陵衛士に参加しようとするが拒絶されました。
正式脱退を会津藩に願い出るが叶わず藩邸内で佐野、富川十郎、中村五郎らとともに自刃します。

茨木司をもっと深く—幕臣になることを拒んで死んだ隊士
慶応三年六月、新選組は幕府の直参に取り立てられます。浪士の集まりが、正式に幕臣になった。隊にとっては悲願の達成でした。
ところが、それを拒んで死んだ隊士が四人います。その一人が茨木司です。
文武ともに優れ、両方から惜しまれた男
入隊は慶応元年。伍長から諸士取調役兼監察にのぼりました。出身は会津とする説と、陸奥中村(相馬中村藩)とする説があり、諸説あります。
同時代の証言が『史談会速記録』に残っています。
非常に勉強家でございまして、剣術も免許以上出来まして、柔術も免許以上を使いました。又少しく文字もございます。
剣も柔も免許以上、そのうえ学もある。近藤勇にも伊東甲子太郎にも重んじられたという、隊内では珍しい立ち位置の人でした。
慶応三年三月、伊東が御陵衛士を結成して隊を出るとき、茨木も参加を希望します。ところが近藤に才を惜しまれて、新選組に残されました。一方で伊東からは間者を頼まれていた、とも伝わります。両方から必要とされた結果、どちらにも属しきれなくなったわけです。
六月十三日に脱局、翌十四日に切腹
幕臣取り立てが決まると、尊皇攘夷を志して入隊した隊士たちが反発しました。佐野七五三之助が中心となり、御陵衛士への参加を願い出ます。ですが規定を理由に断られました。
行き場を失った彼らは、下立売の京都守護職(会津藩)邸へ出向き、新選組からの脱退を嘆願します。受け入れられず、近藤らとの会談も決裂。そして同所で自刃しました。
日付は一次史料に近い記録で押さえられます。宮川信吉が六月二十四日付の書簡にこう書いています。
見込み違之義有之、当月十三日脱局いたし、翌十四日、会津ニおいて申訳ケとして切腹いたし候
六月十三日に脱局、十四日に切腹。『往詣記』にも光縁寺の墓碑銘にも、同じ日付で四名の名が並んでいます。茨木司・佐野七五三之助・冨川十郎・中村五郎です。
自刃だったのか、粛清だったのか
ここは正直に書いておきます。この四人の死には、二つの読み方があります。
一つは記録どおりの自刃説。もう一つは、新選組(検死に来た大石鍬次郎ら)によって斬られたとする粛清説です。佐野が一度蘇生して大石に斬りかかった、という話も伝わります。御陵衛士側の記録は粛清とみています。
どちらが実態に近いのかは、ここでは断定できません。
遺骸は新選組の手で光縁寺に葬られ、のちに鈴木三樹三郎らによって戒光寺へ改葬されました。斬った側が葬り、袂を分かった側が墓を移したことになります。
幕臣になれた月に、幕臣になることを拒んで死ぬ。新選組がいちばん報われた瞬間が、この四人にとっては終わりでした。
新選組隊士全456名情報
慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。
新選組と会津藩の関わりは、新選組と会津藩—京都守護職・松平容保の「お預かり」から、会津での最後の戦いまでにまとめています。
茨木司の生きた時代—相馬中村藩の出身
相馬の出身 茨木司は奥州中村、すなわち相馬中村藩(相馬家六万石)の出身です。相馬家は平将門の流れをくむと伝える家で、いまも続く相馬野馬追の伝統を守ってきました。
茨木の最期と故郷 慶応三年(1867)六月、新選組の隊士が幕臣に取り立てられることに反対した茨木は、佐野七五三之助らとともに会津藩邸に訴え出ましたが、そこで命を絶ちました。翌年、故郷の相馬中村藩は奥羽越列藩同盟に加わったのち、早くに新政府に降っています。
入隊したころの新選組と、相馬中村藩
二百人の隊の中で
茨木司が加わった慶応元年、新選組は総勢およそ二百人という最大の規模に達したとされます。屯所は西本願寺に移り、隊は十の組に分けられました。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
茨木はのちに監察となりましたが、慶応三年六月の幕臣への取り立てに反対して隊を離れようとし、会津藩邸で命を落としています。
二宮尊徳の仕法の藩
茨木の故郷・相馬中村藩は、天明の飢饉で大きく荒れた土地を、二宮尊徳の教えにもとづく「御仕法」で立て直したことで知られる藩です。尊徳の高弟・富田高慶が藩の再建に力を尽くしました。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わりましたが、慶応四年八月に新政府軍に降伏しています。
参考資料:Wikipedia日本語版「茨木司」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:井上泰助(両長召抱人)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



