| 今井祐次郎 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 信州 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
詳細は不明です。
新選組隊士全456名情報

二つの最期が伝わっています
典拠を明かしていない隊士名鑑のなかには、今井祐次郎について天保十五年の生まれ、慶応四年正月五日に二十五歳で没した、と書くものがあります。そしてその死にざまについて、まったく違う二つの話が並べられています。ひとつは鳥羽・伏見の戦いのさなか、淀で討たれたという説。もうひとつは、傷を負って江戸へ帰る船のなかで息を引き取ったという説です。どちらが本当かを決める史料は見つかっていませんが、二つとも慶応四年正月という同じ数日を指していますので、この人がその戦で終わったこと自体は動かないように思われます。
淀で死んだとすれば
正月五日から六日にかけて、鳥羽・伏見に敗れた旧幕府軍は淀へ退きました。ところが淀藩は城の門を開かず、傷ついた兵の列はそこで行き場を失います。老中を出している譜代の藩が幕府軍を入れなかったこの一件は、戦の流れを決めた出来事として語られますが、そこで死んだ一人ひとりの名はほとんど残りませんでした。同じ「正月六日、淀で戦死」と記録されている隊士に、吉村貫一郎がいます。
船の上で死んだとすれば
もう一方の説をとるなら、今井が息を引き取ったのは海の上ということになります。慶応四年正月、隊は富士山丸と順動丸に分かれて大坂を発ち、品川へ向かいました。負傷者は近藤勇とともに富士山丸へ乗ったと伝わりますが、乗船の割り振りも到着の日取りも、永倉新八の回想と子母澤寛の著作から伝わるもので、一次史料で裏づけられた数字ではありません。江戸へ着いた手負いの隊士が医学所で松本良順の手当を受けたことは幕府の公文書に残っていますので、今井がその手当を受けるまでもたなかった、という話になります。
墓は滝野川にあると記す資料があります
今井の墓を東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地とする資料があります。ここは【現地取材】近藤勇の墓と板橋刑場跡で書いたとおり、近藤勇の供養塔が立ち、明治九年に永倉新八が建てた碑の側面に隊士たちの名が刻まれている場所で、石井清之進の墓もここにあります。京や淀で死んだ者の名が、江戸の刑場跡のそばに集められている—新選組の墓所としては、いかにもこの隊らしい成り立ちです。
大石鍬次郎の弟を斬ったという話について
今井については、慶応二年二月に茨木司らと同じ監察をつとめていたころ、大石鍬次郎の実弟である造酒蔵を、それと知らずに斬ってしまい、兄弟のあいだが険悪になったのを土方歳三が取りなした、という話が伝わります。ただしこの挿話の出どころは子母澤寛『新選組物語』で、いくつかの食い違いが指摘されています。話のなかに近藤勇が出てきますが、慶応二年二月の近藤は伊東甲子太郎を伴って広島へ出張しており京にいません。造酒蔵の記録上の死因も病死とされています。読み物としては面白い話ですが、史実として扱える段階にはありません。
信州から来たただ一人
当サイトに名のある隊士のうち、信州の出と記されているのは今井祐次郎ひとりです。文久三年、のちに新選組となる浪士組は中山道を通って京へ上りました。和田峠を越えて下諏訪に泊まり、奈良井から木曽谷へ抜ける道筋ですから、隊の始まりは信州の宿場を通り過ぎています。今井が入隊したのは慶応元年の江戸募集とされますので、その行列を見たわけではないはずですが、自分の国を通っていった一団の噂くらいは、耳にしていたかもしれません。
今井祐次郎の生きた時代—信州と佐久間象山
信州の出身 今井祐次郎は信州の出身です。信州からは、松代藩の佐久間象山という幕末の大学者が出ました。象山は砲術や洋学に通じ、門下からは勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らが出ています。元治元年(1864)、象山は将軍後見職の一橋慶喜に招かれて京都に上り、開国と公武合体を説きました。
京都での死 ところが同じ年の七月十一日、象山は京都の三条木屋町で尊攘派の浪士に斬られて亡くなります。京都の治安を守る新選組にとっても、洋学者が白昼に斬られるこの事件は衝撃でした。今井はその後、新選組の監察として浪士の取り締まりにあたりました。
鳥羽伏見の戦いと、新選組の幹部たち
伏見奉行所の三日間
慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いが始まりました。新選組は会津藩兵とともに伏見奉行所に陣を構えましたが、局長の近藤勇は前の年の十二月に墨染で狙撃された傷が癒えず、大坂で療養していました。そのため、隊の指揮は副長の土方歳三が執っています。新政府軍の砲撃で奉行所は焼け、旧幕府軍は淀・八幡・橋本へと退いていきました。
この戦で失われた隊士
新選組の戦死者は、三日に一人、五日の淀千両松で井上源三郎ら七人、六日の橋本で四人を数えたとされます。京都以来の六番組長・井上源三郎もここで倒れました。戦いのあと、隊は大坂から幕府の軍艦で江戸へ引き揚げます。このときの隊の主な幹部は次のとおりでした。
- 局長:近藤勇(負傷のため大坂で療養)
- 副長:土方歳三(伏見で指揮を執る)
- 副長助勤:沖田総司(病のため大坂で療養)、永倉新八、原田左之助、井上源三郎(戦死)、斎藤一 ほか
今井祐次郎も、この戦いの数日のうちに命を落とした一人と伝わります。
参考資料:Wikipedia日本語版「今井祐次郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



