| 服部武雄 | |||
| 職名 | 諸士取調役兼監察 | ||
| 出身 | 播磨赤穂 | ||
| 終焉場所 | 京都油小路事件 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
服部武雄をもっと深く—油小路で、ひとり最後まで戦った二刀流
油小路の夜、仲間を逃がすために最後まで踏みとどまった御陵衛士です。新選組の側でも屈指の使い手として知られていました。
赤穂出身、大柄な二刀流
天保三年、播磨赤穂藩の出身です。大柄で力が強く、剣術・柔術・槍術のいずれにも優れ、とくに二刀流の達人だったといわれます。
元治元年十月、尾形俊太郎の五番組に入り、翌年春には諸士取調役兼監察・撃剣師範となります。慶応元年十一月の近藤勇の長州出張に随行し、慶応二年九月の三条制札事件でも働きました。
御陵衛士へ
慶応三年三月、伊東甲子太郎らとともに新選組を離れ、御陵衛士に加わりました。
「満身二十余創」
同年十一月十八日の夜、伊東の遺体を引き取りに油小路へ向かった衛士たちは、待ち伏せていた新選組に囲まれます。服部は鎖帷子を着込み、仲間を逃がすためにひとりで戦い続けました。
夜が明けて見つかった服部は、全身に二十か所あまりの傷を負い、両手に刀を握ったまま大の字になって倒れていたと伝えられます。三十六歳でした。墓は伊東らとともに、泉涌寺の塔頭・戒光寺にあります。
服部武雄の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保三年(1832) | 播磨赤穂藩の出身として生まれる |
| 元治元年(1864)十月 | 新選組に入り、尾形俊太郎の五番組に属する |
| 慶応元年(1865)春 | 諸士取調役兼監察、撃剣師範になる |
| 慶応元年十一月 | 近藤勇の長州出張に随行する |
| 慶応二年(1866)九月 | 三条制札事件で働く |
| 慶応三年(1867)三月 | 伊東甲子太郎らとともに御陵衛士となり、新選組を離れる |
| 慶応三年十一月十八日 | 油小路で新選組に囲まれ、最後まで戦って討たれる。三十六歳 |
| のち | 伊東らとともに、泉涌寺の塔頭・戒光寺に葬られる |
服部武雄を読み解く
新選組に重く用いられた使い手
服部は入隊して半年ほどで、監察と撃剣師範という二つの重い役に就いています。監察は隊士の動きを見張る役、撃剣師範は剣術を教える役です。さらに近藤勇の長州出張にも随行し、三条制札事件でも働きました。近藤や土方にとって、服部は腕も信用も備えた、手放したくない隊士だったはずです。その服部が伊東甲子太郎について行ったことは、新選組にとって大きな痛手でした。
監察から、見張られる側へ
監察は、隊の中の裏切りや脱走を取り締まる役目です。服部は、その取り締まる側にいながら、自分が隊を離れる側になりました。御陵衛士が薩摩藩に近づき、新選組と敵対していくにつれ、かつての監察は新選組にとって、隊の内情を知りすぎた相手になっていったといえます。
油小路の最期が語るもの
油小路の夜、衛士たちは待ち伏せていた新選組に囲まれました。服部は鎖帷子を着込んで臨み、仲間を逃がすためにひとり戦い続けたと伝わります。夜明けに見つかった服部は、二十か所あまりの傷を負い、両手に刀を握ったまま倒れていました。二刀流の達人らしい最期です。この夜、篠原泰之進・加納鷲雄・富山弥兵衛らが切り抜けられたのは、服部が踏みとどまったからだという見方もあります。ともに討たれた毛内有之助のページ、事件の全体をまとめた油小路事件とはもあわせてご覧ください。
はっきりしないこと
服部の最期の様子は、生き残った衛士や周りの人々の話として伝わるもので、細かなところは伝え方によって違います。
服部武雄と油小路の夜をさらに掘り下げる
罠と知りながら向かった
伊東甲子太郎の遺体が油小路に置かれていると知らされたとき、御陵衛士たちは、それが自分たちをおびき出すための罠である可能性に気づいていたはずです。服部が鎖帷子を着込んで出かけたと伝わることも、それを裏づけています。
それでも衛士たちは油小路へ向かいました。盟主の遺体を路上に放っておくことは、武士として決して許されない恥だったからです。相手の数も分からない夜の町へ、七人ほどで遺体を引き取りに行く。服部の「満身二十余創」という最期は、その覚悟を最も激しい形で示したものでした。
倒れた四人、逃れた者たち
| 衛士 | 油小路の夜 |
|---|---|
| 伊東甲子太郎 | 近藤の招きの帰り道に襲われ、斃れる |
| 藤堂平助 | 遺体の引き取りに向かい、討たれる |
| 服部武雄 | 最後まで踏みとどまり、討たれる |
| 毛内有之助 | 遺体の引き取りに向かい、討たれる |
| 篠原泰之進・加納鷲雄・富山弥兵衛・鈴木三樹三郎ら | 囲みを破って逃れ、薩摩藩邸に身を寄せる |
生き延びた者たちは、翌月には伏見街道で近藤勇を狙撃し、戊辰戦争では新政府軍の側で戦うことになります。服部がひとりで新選組を引きつけ、仲間が逃げる時間を作ったのだとすれば、その後の近藤狙撃も、服部の戦いがあってこそのものだったといえるかもしれません。事件の全体は油小路事件とはにまとめています。
「かつての仲間」に斬られた撃剣師範
服部は新選組で撃剣師範を務め、隊士に剣を教える立場にいました。油小路で服部を囲んだ新選組の隊士たちのなかには、かつて服部から稽古をつけられた者もいたはずです。教えた者と教わった者が、夜の辻で刃を交えたことになります。
新選組の隊士たちが服部の遺体を見て、その戦いぶりに舌を巻いたという話が伝わるのも、師範としての腕を知っていたからでしょう。敵として斬った相手を、同時に認めざるを得なかった。油小路の夜には、元は同じ隊にいた者どうしの戦いならではの、複雑な思いが渦巻いていました。
赤穂という故郷
服部の故郷・赤穂は、元禄の赤穂浪士の討ち入りで知られる土地です。主君のために命を捨てた四十七士の話は、江戸時代を通じて武士の手本として語り継がれてきました。盟主・伊東の遺体を取り戻すために、ひとり踏みとどまって戦った服部の最期は、どこかその姿と重なって見えます。服部自身が故郷の物語をどう受け止めていたかは分かりませんが、「義のために死ぬ」という生き方が、赤穂に生まれた武士にとって身近なものであったことは確かでしょう。
服部武雄と関わりの深い人たち
- 伊東甲子太郎—御陵衛士の盟主。その遺体を引き取りに行った夜に討たれました。
- 藤堂平助・毛内有之助—同じ夜、油小路でともに倒れた衛士。
- 島田魁—油小路で服部と斬り合った新選組の監察。
- 篠原泰之進—同じ夜を生き延びた衛士。
- 近藤勇—長州出張に随行した局長。
服部武雄のゆかりの地
- 油小路七条のあたり(京都市下京区)—服部が倒れた油小路事件の現場。
- 戒光寺(京都市東山区・泉涌寺の塔頭)—伊東らとともに眠る墓所。
- 月真院(京都市東山区)—御陵衛士の屯所。
- 赤穂(兵庫県赤穂市)—出身の赤穂藩。
参考にした資料:油小路事件の目撃談を伝える諸記録、御陵衛士に関する諸研究。
この隊士が関わった油小路事件については、油小路事件とは—伊東甲子太郎と御陵衛士が斬られた夜で詳しくまとめています。
慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。
「大の字」の出どころ
両手に刀を握ったまま大の字になって倒れていたという有名な話は、どこから来たのでしょうか。出どころは、遺体を検分した桑名藩士・小山正武の証言とされます。傷は「満身二十余創」と記録されました。二十以上の傷を受けながら、両手の刀を離さなかったという意味です。
この話が強いのは、伝説として語られているのではなく、遺体を実際に見た人の言葉として残っているからです。ただし証言そのものも後年に書き留められたもので、細部をそのまま事実として扱うことはできません。服部は元治元年十月の編成では尾形俊太郎の五番組に属し、慶応二年九月の三条制札事件では目付役として働いています。剣の腕だけでなく、隊の実務でも使われていた隊士でした。
新選組をもっと知る本
二刀を使って最後まで戦ったという服部の話は、後世の本を通して知られてきました。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』を読むと、油小路の夜がどう語り継がれたのかが見えてきます。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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次の隊士 ▶:平間重助(副長助勤)
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