| 阿部隼太 | |||
| 職名 | 局長附 | ||
| 出身 | 越後 | ||
| 終焉場所 | 函館弁天台場 | ||
| 終焉方法 | 降伏 | ||
慶応三年に入隊しました。
函館戦争のさなか弁天台場にて降伏します。
以後の消息は不明です。

阿部隼太をもっと深く—鳥羽伏見から箱館まで、そして消息不明
新選組が負け続けた一年半を、最初から最後まで歩いた隊士です。そして降伏したあと、行方が分からなくなります。
江戸から、いちばん遅い時期に入隊
出身は江戸。父は阿部弥七郎といいます。入隊は慶応三年九月。上洛して隊に加わりました。
新選組が幕臣に取り立てられたのが同年六月、伊東甲子太郎が油小路で暗殺されるのが十一月ですから、隊がもっとも張りつめていた時期に入ったことになります。その四か月後には鳥羽・伏見です。
負け戦を、順に
- 慶応四年一月—鳥羽・伏見の戦い。敗れて江戸へ
- 同年八月—会津の母成峠の戦いで負傷
- 明治二年五月—箱館戦争。弁天台場で降伏
降伏後は弘前の薬王院に収容されました。板橋で近藤勇の墓が建つ七年前のことです。
そこで記録が切れます
薬王院に収容されたあとの消息は、分かっていません。生没年も不詳です。
慶応四年正月付で、小林東斎という人物に宛てた阿部隼多の書状が掛軸として現存すると伝わります。ただし日付の読みが朔日・一日・六日・八日と割れており、確定していません。名前も隼太・隼多・集多・準多と、資料によって表記が違います。
この「消息不明」が、新選組の実像です
箱館で降伏した隊士は少なくありません。青山次郎や、永倉新八のように名を残した者もいます。ですが大半は、降伏の記録を最後に消えています。
戦って死ねば記録に残り、生き延びれば記録から消える。新選組の隊士名簿をたどっていくと、そういう人にいくらでも行き当たります。阿部隼太は、鳥羽伏見・母成峠・箱館という三つの戦場を確かに通った、その一人です。
箱館では、第三分隊の嚮導役でした
そこで記録が切れると上に書きましたが、蝦夷地へ渡ってからの役職までは分かっています。表記は「阿部隼多」とするものが多く、越後の出、慶応三年六月以降に入隊して局長附人数となり、鳥羽・伏見から江戸へ帰って五兵衛新田に駐屯し、会津では下役をつとめたと記されています。
母成峠で傷を負いました
慶応四年八月二十一日、母成峠古戦場跡の戦いで負傷しています。同じ日、同じ戦場で倒れて戦死の印を押された隊士に石田入道がいました。三段に築かれた台場を新政府軍が一つずつ抜いていった一日で、一人はそこで死に、一人は傷を負って北へ向かったことになります。
箱館の新選組には、分隊がありました
蝦夷地へ渡ってからの新選組は、いくつかの分隊に分かれていました。第一分隊の指図役が青山次郎、第二分隊の嚮導役が中島登、第四分隊の嚮導役が横倉甚五郎で、阿部隼多は第三分隊の嚮導役です。嚮導役というのは道案内の役で、土地に不案内な部隊を動かすには欠かせません。上には組長の相馬主計、頭取の大野右仲、頭取改役の島田魁がいました。ただし各分隊が何人だったのか、第五分隊があったのかどうかまでは分かっていません。
弁天台場に籠もった二百四十人
明治二年五月十一日、新政府軍による箱館総攻撃の日、弁天台場跡には箱館奉行の永井玄蕃以下およそ二百四十人が守りについていて、そのうち百人あまりが新選組の隊士でした。同じ日、土方歳三は五稜郭から五十人ほどを率いて出て、一本木関門で戦死しています。台場が降伏したのは五月十五日、五稜郭が開いたのはその三日後でした。同じ日に降伏した隊士には明石覚四郎や秋山義三郎がいて、この人たちは預けられた先も放免された月も分かっているのに、阿部隼多についてだけは、そこから先の記録がありません。
阿部隼太の生きた時代—越後の戊辰戦争
越後の諸藩 阿部隼太の故郷・越後は、戊辰戦争で激しい戦場となった地です。慶応四年(1868)、長岡藩をはじめとする越後の諸藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦いました。ところが新発田藩は同盟の中にありながら、七月に新政府軍の上陸を手引きして同盟を離れます。これによって新政府軍は新潟を押さえ、越後の戦いの流れは大きく変わりました。
北へ 越後の戦いが終わると、同盟の残りの兵や旧幕府方の人々は会津・東北へ、さらに箱館へと退いていきました。越後出身の阿部も、新選組とともに北へ向かい、明治二年に箱館で降伏しています。
慶応三年の新選組、局長附の隊士たち
入隊したころの隊
阿部隼太が加わった慶応三年、新選組の隊士たちは六月に幕府の家臣に取り立てられ、屯所は西本願寺から不動堂村へ移りました。三月には参謀の伊東甲子太郎らが隊を離れており、十一月十八日には油小路で御陵衛士との斬り合いが起きています。このころの主な幹部は次のとおりです。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
- 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
- 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離
局長附という役
阿部が就いた局長附は、局長・近藤勇の身辺に付いて、使いや護衛などを務める役でした。幕臣となった近藤は、幕府や会津藩、諸藩の重臣との行き来が増え、身の回りを支える者が欠かせなくなっていました。この年の十二月、近藤は伏見街道の墨染で狙撃され、肩に傷を負っています。
参考資料:Wikipedia日本語版「阿部隼太」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:阿部十郎(伍長)
次の隊士 ▶:甘地一撰(平隊士)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



