千歳丸【久留米藩 商業用蒸気船 幕末軍艦】

千歳丸
藩名 久留米藩
藩主 有馬慶親
船種 商業用蒸気船
機関 蒸気
備砲 6門
材質 木製
馬力 90馬力
写真 絵図

■ 詳細
千歳丸は、幕末に久留米藩が保有した蒸気船です。日本最初の観艦式に参列した艦船の一隻でもあります。
1867年にイギリスのグラスゴーで建造された商船「コケット」で、1867年12月頃(慶応3年11月)に久留米藩がアメリカ人商人ウォールスから長崎で購入し、筑後川の旧称である千歳川にちなんで「千歳丸」と改名しました。

当時、久留米藩は洋式艦船の取得を急速に進めており、千歳丸はその7隻目でした。木造の2本マスト・1本煙突の蒸気船で、要目は全長126尺(38.2m)・甲板幅26尺(7.9m)・深さ14尺(4.2m)・トン数459トン(1800石積み)、乗員50人でした。

フレッチレー12斤砲2門と同9斤砲4門、小銃30丁を備えており、戊辰戦争が勃発すると、久留米藩は明治政府方についたため、「千歳丸」も明治政府海軍として従軍しました。1868年4月18日(明治元年3月26日)には、大阪湾の天保山沖で「電流丸」を旗艦とする6隻の諸藩連合艦隊の一隻として、明治天皇の観閲を受け、日本初の観艦式参加艦となる栄誉を担いました。

明治維新後は久留米県所管の公船になりましたが、1871年(明治4年)に「青龍丸」と改称され、商船として払い下げられました。

幕末軍艦一覧リスト

七隻のなかで、いちばん高い買い物でした

久留米市の資料には、この藩が元治元年から慶応三年にかけて買い集めた七隻が、値段まで添えて並んでいます。千歳丸は八万五千ドルで、七隻のうち最も高い船でした。次が雄飛丸の七万五千ドル、晨風丸の五万三千ドル、以下は翔風丸の八千ドル、遼鶴丸の七千ドル、神雀丸の六千ドル、玄鳥丸の四千七百ドルと続きます。同じ資料はこの規模を、幕府を除けば薩摩藩佐賀藩土佐藩に次ぐものだったとしており、二十一万石の久留米藩が、石高に比してかなりの数を揃えていたことになります。

要目が資料によって食い違います

久留米市の資料は千歳丸を、長さ百七十二フィート・幅二十五フィート・深さ十四フィート、六百トン、九十馬力、砲六門としており、この記事にある四百五十九トンという数字とは大きく開きがあります。深さも一方はフィート、他方は尺で単位そのものが合わず、どちらが正しいのかは判断がつきませんので、諸説あるものとして両方を書き留めておきます。読み方も同じで、久留米市の資料は「せんざいまる」とふりがなを振っていますが、世間では「ちとせまる」と読まれることが多く、幕府が文久二年に上海へ送った同名の千歳丸も「ちとせまる」です。

天保山沖に並んだ六隻

明治元年三月二十六日、大阪の天保山沖で明治天皇が諸藩の軍艦をご覧になりました。防衛省防衛研究所の論考は、これをわが国における観艦式の最初のものと位置づけています。記念碑を紹介する資料によれば、並んだのは佐賀藩の電流丸、肥後藩の万里丸、久留米藩の千歳丸、薩摩藩の三邦丸、長州藩の小芙蓉丸(華陽丸)、安芸藩の万年丸の六隻で、聖護院宮嘉言親王が旗艦の電流丸に乗っておられました。万年丸は当サイトでは薩摩藩の船として立てていますが、慶応二年に広島藩へ渡っていますので、同じ一隻とみられます。天保山公園には、昭和四年に建てられた明治天皇観艦之所碑が残ります。

船長をつとめた前野雅門

久留米市が近年あらたに収集して公開した千歳丸の写真は、前野雅門という藩士にまつわる資料です。前野は元治元年十一月に御馬廻組へ召し出されて十人扶持を受け、雄飛丸の士官勘定頭を兼ねたのち、明治三年には藩で最も大きなこの船の船長になりました。明治六年六月十二日に、五十五歳で世を去っています。

柏崎の浜で終わった船

明治四年十一月に青龍丸と改められたあとも、この船は長く生き延びました。明治四十年に神戸の井上文太郎へ、翌年には新潟の渡辺藤吉へと渡って石油を運ぶ船に改められ、明治四十五年には伏木の塩谷合名会社の持ち船となります。そして大正二年三月十六日、新潟県柏崎の浜からおよそ五百五十メートル沖の浅瀬に乗り上げ、二十三日に沈みました。船体は同じ年の四月に千五百円で落札され、大正七年の引き揚げで鉄材が七千貫ほど回収されています。グラスゴーで生まれてから、四十六年が過ぎていました。

軍艦全140隻の一覧を見る

  • URLをコピーしました!
目次