
| 開陽丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | シップ級フリゲート | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 24門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 1200馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||

開陽丸は幕末期に幕府がオランダに発注した当時最先端の軍艦です。木造のシップ型帆船で排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門を備えていました。
艦長は長崎伝習所二期生の榎本武揚で一期生には当時軍艦奉行を務めていた勝海舟がいます。
徳川慶喜が「大政奉還」を二条城で各大名に表明した際には、僚艦の回天丸、朝陽丸と共に江戸湾に在りました。しかし、西郷隆盛らによる江戸の町を撹乱するという行為に対して、庄内藩が薩摩藩邸を襲撃。この時、多くの薩摩お抱え浪士や薩摩藩士が江戸を脱出しました。
浪士らは薩摩藩船の翔鳳丸に乗って江戸脱出を図り、開陽丸はこれを追い大阪まで辿り着きこのまま大阪湾警護の任に就きました。
大政奉還後に鳥羽伏見の戦いが勃発すると形勢不利と考えた「徳川慶喜」が艦長の榎本武揚不在のまま開陽丸に乗って江戸城へ撤退したのです。そして、以後は謹慎を続けることとなります。
一方、薩摩・長州・土佐・肥前などの新政府軍に最後まで抵抗すべく榎本ら旧幕府軍海軍は一路北を目指し函館五稜郭で徳川家家臣たちのため土地を開墾し、貿易を行い独立国家を目指しました。
当然新政府軍がこれを許すことはなく、函館戦争が勃発することとなるが旧幕府海軍の旗艦である「開陽丸」は江差沖にて座礁し海の藻屑と消えました。これにより海軍力の比率が大きく変わり函館戦争の運命を大きく変えることになるのです。
幕府海軍が誇った最強の旗艦「開陽丸」
開陽丸は、幕府がオランダのドルドレヒトに発注した木造のシップ型フリゲートで、1866年(慶応2年)に完成し、翌1867年に日本へ回航されました。多数の大砲を備えた当時の日本で最強クラスの軍艦であり、幕府海軍の旗艦として位置づけられました。オランダ留学から帰国した榎本武揚が、この艦とともに帰朝したことでも知られます。
榎本艦隊の旗艦として蝦夷地へ
大政奉還から戊辰戦争へと時代が動くなか、榎本武揚は徳川家臣団の再興を掲げ、開陽丸を旗艦とする艦隊を率いて江戸を脱走し、蝦夷地へと北上しました。箱館・五稜郭を拠点とする旧幕府勢力にとって、開陽丸は海上戦力の要でした。
江差沖での座礁と沈没
ところが1868年(明治元年)11月、江差沖で陸上部隊を支援していた開陽丸は暴風雪に見舞われて座礁し、そのまま沈没してしまいます。最強の旗艦を失ったことは旧幕府軍の海軍力を大きく削ぎ、蝦夷地に立てこもった勢力の命運を左右しました。沈没した船体は後年に一部が引き揚げ・調査され、現在は江差に実物大の復元船が展示されています。
開陽丸をもっと深く——オランダで造られ、江差の海で終わった旗艦
注文から到着まで、五年
幕府がオランダに開陽丸を発注したのは文久二年(1862年)です。建造はドルトレヒトの造船所で進み、進水が1865年、完成が翌1866年。横浜に姿を現したのは慶応三年(1867年)三月でした。注文から五年が経っていました。
その五年で、日本の政治は原形をとどめないほど変わっています。発注した年の幕府は攘夷の圧力に押されていたが、船が着いた年には大政奉還が目前でした。最新鋭艦を注文した政権と、それを受け取った政権は、事実上べつのものになっていました。
建造を監督するため、榎本武揚や沢太郎左衛門ら十数名がオランダへ留学しています。彼らは船の完成を待っていたのではなく、船とともに帰ってきました。開陽丸の到着とは、日本人の技術者集団の帰国でもありました。
要目——当時の日本近海で最強
| 建造 | オランダ・ドルトレヒト(1866年完成) |
|---|---|
| 排水量 | 約2,590トン(約3,000トンとする資料もあり) |
| 推進 | スクリュー(蒸気機関1基) |
| 出力 | 計画400名馬力/試運転約1,200馬力 |
| 速力 | 約10ノット |
| 備砲 | 26門(のち35門とも。諸説あり)。うちクルップ16センチ施条砲18門 |
完成したとき、オランダ海軍の士官が「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦はない」と言ったと伝えられます。誇張が混じっているにせよ、幕府が最後に手に入れた切り札であったことは確かでした。
切り札は、ほとんど撃たれなかった
慶応四年正月、鳥羽・伏見で敗れた徳川慶喜が大坂城を脱し、江戸へ退くのに使ったのがこの艦です。日本最強の軍艦の最初の大仕事が、総大将の退却の足でした。
直後の阿波沖では、兵庫を脱出する薩摩藩の春日丸と撃ち合っています。開陽が二十五発、春日が十八発を放ち、双方に死傷者は出ず、春日は速力にまさって逃げ切りました。日本で最初の、蒸気軍艦同士による近代的な海戦とされます。最強の艦をもってしても、逃げる相手は捕まえられませんでした。
同年八月、開陽丸は榎本艦隊の旗艦として品川沖を脱走し、蝦夷地へ向かう。十月には五稜郭を押さえました。ここまでは、この艦の力がものを言っています。
江差沖の暴風
明治元年十一月、松前藩の江差を攻めるため、開陽丸は海上から砲撃を加えました。上陸した部隊が江差を占領し、戦いは勝っていました。
その夜、暴風が来ました。錨が効かず、開陽丸は座礁します。救援に向かった神速丸までが沈む始末で、艦は十日ほどのちに沈没しました。旧幕府軍は最大の戦力を、砲火ではなく天候で失ったのです。
制海権を失った榎本軍は、以後回天丸、千代田形、蟠龍丸を次々に失っていきます。蝦夷共和国の運命は、江差沖の一夜でほぼ決まりました。
百年後に引き揚げられた船
開陽丸の残骸は、昭和五十年(1975年)から本格的に調査・引き揚げが行われました。海底からはクルップ砲、砲弾、船具、そして乗員の日用品までが上がってきています。
現在、江差の岸には原寸大に復元された開陽丸が置かれ、引き揚げられた実物が船内に展示されています。沈んだ船そのものが自分の資料館になった例は、日本にこれひとつしかありません。
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