| 神速丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 2門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 90馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||

1861年アメリカ・シャムロで建造しました。1864年7月20日、アメリカから横須賀に回航されました。神速丸は木造ながら頑丈で、操作性・機動性に富んで神速の名に恥じなかったが、武運拙く榎本艦隊参加後江差の沖で座礁しました。
所属した江戸幕府と、江差沖の悲劇
この船・神速丸は、江戸幕府の軍艦で、旧幕府艦隊とともに北へ向かった一隻です。
慶応四年(1868)、榎本武揚の艦隊が蝦夷地をめざすさなか、旗艦・開陽丸が江差沖で座礁しました。救援に向かった神速丸もまた、荒れる海に呑まれて失われたと伝えられます。相次いで艦を失ったことは、旧幕府軍の戦力を大きくそぎました。神速丸は、その悲運の艦隊の一隻でした。箱館の戦いは五稜郭のページへ。
神速丸をもっと深く—助けに行って、一緒に沈んだ船
この船の名は、開陽丸の最期を語るときに必ず出てきます。助けに向かって、同じ風で沈んだからです。
| 建造 | アメリカ・シャムロ(1861年) |
|---|---|
| 旧名 | ミーティア(Meteor) |
| 購入 | 元治元年2月6日、箱館で受領 |
| 購入価格 | 47,500ドル |
| 要目 | トン数・機関・馬力・備砲いずれも不明 |
要目が分からない船
正直に書くと、この船の大きさも、外輪だったのかスクリューだったのかも、資料で確認できません。四万七千五百ドルという購入価格と、元治元年に箱館で受け取ったという記録が残っているだけです。
幕末の艦船にはこういう船が少なくありません。所属が幕府から新政府へ移るたびに帳簿の様式が変わり、途中で記録が失われます。名前と価格だけが残って、姿が分からません。
江差沖
明治元年八月十九日、神速丸は榎本武揚に従って品川沖を脱走し、箱館へ入りました。
そして十一月十五日。松前藩の江差を攻めていた旗艦・開陽丸が、暴風のなかで座礁したという報せが入ります。神速丸は回天丸とともに救援へ向かいました。
そして同じタバ風に煽られ、座礁して沈みました。
旧幕府軍はこの一夜で、最大の戦力と、それを助けに行った船を同時に失いました。砲火を交えたわけではありません。天候だけで二隻が海に消えました。
以後、榎本艦隊は千代田形を暗礁で失い、回天丸を箱館湾で焼かれ、制海権を完全に失っていきます。蝦夷共和国の命運は、この江差沖の夜にほぼ決まりました。
開陽丸を助けに行って、同じ海で失われました
明治元年十一月十五日の夜、榎本の艦隊の旗艦だった開陽丸が江差の沖で座礁しました。神速丸はその救援に向かい、同じ海で座礁して失われています。二隻を続けて失ったことは、旧幕府軍の力を大きく削りました。助けに行った船が、助けようとした船と同じ末路をたどったことになります。なお
品川を出た八隻のうちの一隻
明治元年八月十九日に品川を出た榎本の艦隊は八隻でした。軍艦が開陽丸・回天丸・蟠竜丸・千代田形、輸送船が咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸です。このうち美嘉保丸は出てまもなく銚子の沖で座礁し、咸臨丸は嵐で傷んで清水港へ入ったところを新政府に捕らえられ、神速丸は江差で失われました。八隻のうち三隻が、北で戦う前に欠けたことになります。二百五十トンの二本マストのスクーナーで、木造ながら頑丈で、神速の名に恥じない船だったと伝わります。
神速丸を船の型と持ち主から読む
神速丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この神速丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、黒竜丸(輸送船)、咸臨丸(バーク級武装商船)、観光丸(スクーナー級コルベット)、回天丸(スクーナー級砲艦)、大江丸(輸送船)、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)などがあります。
持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。神速丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
同じころの幕府—池田使節の横浜鎖港談判
横浜を閉じる交渉
神速丸が幕府の船となった元治元年(1864)、幕府は外国奉行の池田長発を正使とする使節をフランスに送っていました。攘夷を求める朝廷をなだめるため、開いたばかりの横浜の港を閉じる交渉をするためです。
使節の変心
ところがヨーロッパの国々の力を目の当たりにした池田は、鎖港などとうてい無理だと悟り、交渉を途中で打ち切って、この年の七月に帰国しました。池田は開国を進めるべきだと幕府に説きましたが、かえって処罰されてしまいます。開国の現実と、国内の攘夷の声とのあいだで、幕府はなお揺れていたのです。



