「一乗谷で幕末の記事は書けるのか」——このサイトは幕末歴史ガイドですから、当然の疑問です。
正直に答えます。一乗谷そのものに幕末はありません。朝倉氏がここを拠点としたのは文明三年から天正元年までの百三年間。信長に焼かれてからは、江戸時代を通じてただの田んぼでした。
それでも書けると判断したのは、三つの理由があるからです。
- ここは、松平春嶽の福井藩から数えて「三代前の越前の首都」である
- 幕末の福井藩士は、この谷の下に町が丸ごと眠っていることを知らなかった
- そして——「動かなかった大名」の物語が、幕末とまっすぐつながる

百三年間、越前の首都だった谷

説明板に、この土地の性格が端的にまとめられていました。
一乗谷は文明三年から天正元年までの百三年間、戦国大名・朝倉氏が領国支配の拠点とした場所です。周囲の山に山城や櫓を配置し、谷の入り口と、その一・七キロ上流の谷幅が最も狭まった所に、上下二つの城戸(きど)を設けて防御を固めた。
この二つの城戸で区画された「城戸ノ内」が町の中核部で、一九六七年、これを中心に二七八ヘクタールという広大な地域が特別史跡に指定されました。
——城ではなく、谷ぜんたいが要塞であり、都市だった。
発掘によって、谷のなかに城主の館、一族の居館、家臣団屋敷、寺院、そして商人や職人が住んだ町屋が、道路に沿って計画的に配置されていたことが明らかになっています。当時の人口は一万人を超えたともいわれ、京の戦乱を逃れた公家や文化人が集まって「北ノ京」と呼ばれました。


歩いてみると、この「谷ごと囲う」という発想が体でわかります。左右から山が迫り、その間に細長い平地がある。両端を締めれば、それだけで外と切り離せる。——山城でも平城でもない、地形そのものを城にしたのです。
★動かなかった大名 ― 朝倉義景と、幕末の諸藩


朝倉館跡の説明板に、さらりと重大な一行があります。
「室町幕府十五代将軍、足利義昭を迎えた際には、中庭(花壇)を取り囲む主殿や会所などの南側の一角で、儀式や宴会が行われました」
——将軍がここにいたのです。
兄を殺され、京を追われた足利義昭は、この谷に身を寄せました。そして五代当主朝倉義景に、上洛して自分を将軍に据えてくれと求めます。
義景は動きませんでした。
理由はいくつも挙げられます。加賀の一向一揆と長年対立していて背後が不安だった。長期間の遠征に耐える国力に自信がなかった。畿内の三好勢を破って上洛するのは現実的でないと見た。——どれも、それなりに理のある判断です。
待ちきれなかった義昭は、一乗谷を去って美濃の織田信長を頼りました。そして信長は上洛し、天下布武へ向かう。それから五年後、その信長がこの谷を焼き、義景は自刃します。
——これは、幕末の話でもあります
ここまで幕末の藩をずいぶん書いてきて、私はこの構図に何度もぶつかりました。
加賀藩百万石は、禁門の変のときに世子が戦わずに引き返しました。失うものが大きすぎて、賭けができなかったのです。結果、維新の功臣を一人も出せていません。
熊本藩五十四万石は、藩論が三つに割れて最後まで動けませんでした。西国屈指の大藩でありながら、主役になれなかった。
広島藩は、薩摩・土佐と三藩盟約を結びながら、武力倒幕に踏み切れず、討幕の密勅から外されました。
「慎重な判断」と「機を逃した」は、あとから見れば同じことです。そして、あとから見ることができるのは、我々だけです。
朝倉義景の判断が愚かだったとは、私には思えません。ただ、時代が動くとき、動かないことは中立ではなく選択になる。この谷は、そのことを四百五十年前に証明した場所です。
——そして幕末に同じ問題に直面した大名たちは、たいてい義景の名を知っていたはずです。
★越前の首都は、三度引っ越している
もう一つ、この谷を幕末につなぐ確かな線があります。
翌日にまわった北ノ庄城址で、日本遺産の説明板にこう書かれていました。越前支配の拠点が一乗谷から北庄・福井へ移り、笏谷石の産地である足羽山に近くなった——と。
| 拠点 | 主 | 期間 | 終わり方 |
|---|---|---|---|
| 一乗谷 | 朝倉氏 | 約103年 | 信長に焼かれ、義景自刃 |
| 北ノ庄 | 柴田勝家 | 約8年 | 秀吉に敗れ、自ら城に火を放つ |
| 福井 | 越前松平家 | 約267年 | 廃藩置県 |
一乗谷は、松平春嶽の福井藩から数えて三代前の首都です。
そして、この三つはただ並んでいるのではありません。後の城は、前の城を材料にしています。北ノ庄城の石垣は福井城築城の際に取り除かれ、根石だけが残った——これは北ノ庄の説明板に明記されていた事実です。
——近江でも同じでした。佐和山城も長浜城も、解体されて彦根城の材料になっている。日本の城は、滅びるのではなく、次の城になるのです。
幕末には、ここは田んぼだった


ここからが、この記事でいちばん書きたかったことです。
信長に焼かれたあと、一乗谷は再建されませんでした。柴田勝家が北ノ庄に入り、越前の中心はそちらへ移る。谷には田畑が開かれ、町の跡は土の下に沈んでいきました。
本格的な発掘調査が始まるのは戦後のことです。一九六七年に二七八ヘクタールが特別史跡に指定され、そこから半世紀以上をかけて、館の礎石が、家臣の屋敷が、町屋の並びが、井戸が、道が、次々と土の下から現れました。
つまり——幕末の福井藩士たちは、この谷の下に一万人の都市が眠っていることを知らなかった。
橋本左内も、由利公正も、松平春嶽も、この谷を通ったことはあったでしょう。けれど彼らが見たのは、田んぼと、朝倉氏の墓と、いくつかの言い伝えだけです。
私はこれまで、鹿島城跡や高天神城で「幕末には城でなかった場所」を歩いてきました。一乗谷は、その極北です。城でなかったどころか、そこに何があったのかさえ、幕末の人は知らなかった。
それでも、墓だけは残っていた

谷の一角に、「五代 義景公墓所」と書かれた標柱が立っていました。雪の残る参道の先に、小さな墓所があります。
——町は消えました。館も、屋敷も、町屋も、井戸も、すべて土の下に沈んで、田んぼになった。
それでも、義景の墓だけは地上に残り続けたのです。
信長に滅ぼされた男の墓が、その後の四百年、柴田勝家の時代も、越前松平家の時代も、幕末も、明治も、ずっとこの場所にあった。
私はこの旅で、同じことに何度も出会いました。
佐和山城では、石田三成の城を壊した井伊家が、その城の絵図を三枚も幕末まで伝えていました。柴田神社は、秀吉に滅ぼされた勝家を主祭神として祀り、いまも地元の人が参っています。太平山では、天狗党を追討した側の人間が、追われた側の鎮魂碑を建てていました。
日本という国は、滅ぼした相手の記憶を、滅ぼした側が引き受けて持ち越す。一乗谷の墓所も、その一つです。
小雨の谷を歩く


この日は小雨で、足元に雪が残っていました。前日の安土は晴れていたのに、越前に入ったとたんこれです。——北陸の冬は、こういうものなのでしょう。
谷の南に、復元町並があります。発掘された遺構の上に、当時の町屋と武家屋敷を実物大で建てたものです。土塀にはさまれた細い道が、まっすぐ奥へ続いている。
正直に言うと、私はこの復元町並に行くまで、一乗谷を「石垣も天守もない、地味な史跡」だと思っていました。
その考えが変わったのは、この道に立ったときです。
ここには、城ではなく「暮らし」が復元されている。商人の店があり、職人の作業場があり、井戸があり、便所があり、そこに人が住んでいた痕跡が、間取りごと出てくる。——天守の有無で城跡を測ってきた自分の物差しが、少し恥ずかしくなりました。
雨に濡れた土塀の道を歩きながら、この下に一万人が暮らしていたこと、それが一日で焼かれたこと、そして四百年も誰にも知られずに眠っていたことを、順番に考えていました。
幕末の人が知らなかったものを、いま私が見ている。——史跡を歩いていて、これほどはっきり「時代の差」を感じたことはありません。
アクセスと地図
特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡/福井県福井市城戸ノ内町ほか。JR越美北線の一乗谷駅から、または福井駅からバス。車なら福井城址から三十分ほどです。
遺跡そのものは広大で、無料で歩けます。唐門、朝倉館跡、庭園、土塁、井戸跡——これらは自由に見学できます。復元町並は有料(時間・料金は要確認)。あわせて福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館に寄ると、出土品と巨大な復元模型で全体像がつかめます。
歩く距離が長いので、ゆっくり回るなら半日。谷なので冬は雪、夏は虫です。私が行ったのは冬でしたが、雪と霧の一乗谷は、これはこれで滅びた都の景色として悪くありませんでした。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「土塁跡」
- 現地の案内板「朝倉館跡」
- 現地の案内板「五代 義景公墓所」
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
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