幕末には、幕府と諸藩をあわせて百数十隻の洋式船がありました。そのなかには、名前と大まかな要目しか伝わらず、いつどこで造られ、どう使われ、どうなったのかがほとんど分からない船が少なくありません。当サイトでは以前、そうした船にも一隻ずつページを設けていましたが、書けることが少ないため、ここに十一隻をまとめました。
要目の多くは、勝海舟が編んだ『海軍歴史』の船譜などに由来すると考えられますが、すべての出どころを確かめられたわけではありません。分からないことは分からないと書いています。新しい資料が見つかった船は、あらためて一隻のページとして書き直します。
この記事でとりあげる船
奇捷丸(江戸幕府 スクリュー汽船)
| 奇捷丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 150馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
幕府の一覧に名はありますが、それだけです
奇捷丸は、幕府海軍の艦船を並べた一覧に確かに載っています。ところが、そこには船名しか書かれておらず、ほかの船に付いている「明治政府へ移管」といった注記もありません。原名も、どこの国でいつ造られたのかも、いつ誰からいくらで買ったのかも、幕府海軍でどう使われ、そのあとどうなったのかも、調べた範囲では分かりませんでした。読み方すら、ふりがなを振った資料が見つかりません。
この記事にある数字の出どころ
長三十六間五尺・幅五間・五百十七トン、百五十馬力のスクリュー汽船という要目は、幕末の幕府艦船の諸元を調べるときの大本になる勝海舟の『海軍歴史』の船譜から来ているのかもしれません。ただし、そこまでは確かめられていません。五百十七トンという大きさは幕府の船のなかでは中くらいで、備砲が無いことからも、兵や物を運ぶための船だったとみられます。名前だけが残って中身の分からない船が幕府海軍にも何隻かあり、奇捷丸はその一つです。
啓明丸(加賀藩 輸送船)
| 啓明丸 | |||
| 藩名 | 加賀藩 | ||
| 藩主 | 前田慶寧 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
買って七か月で壊れた船です
慶応二年五月に長崎で一万二千ドルを払い、その年の十二月には常陸の那珂湊で壊れています。手元にあったのは七か月ほどでした。加賀藩の船はどれも長くは保たず、文久二年の暮れに横浜で六万五千両で買った発機丸は慶応元年に大きく壊れて直しきれず錫懐丸と名を改め、慶応元年十月に長崎で十一万二千ドルで買った李白里丸も、北越戦争で兵を運んだのち明治元年八月に越後の松ヶ崎沖で座礁して沈みました。百万石の藩が三隻を買って、三隻とも数年のうちに失ったことになります。
那珂湊という場所
啓明丸が壊れた常陸の那珂湊は、元治元年に天狗党をめぐる戦いのあった土地です。慶応二年十二月といえば、その二年後にあたります。加賀藩の船が何をしにそこまで行っていたのかは、分かりませんでした。
祥瑞丸(宇和島藩 スクリュー汽船)
| 祥瑞丸 | |||
| 藩名 | 宇和島藩 | ||
| 藩主 | 伊達宗城 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 25馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
船種の書き方が食い違っています
このページは表で船種をバーク船としながら、題ではスクリュー汽船としています。本文は蒸気内車の鉄製と書いていますので、帆装を持つ汽船であれば両方とも間違いではありません。ただしどちらが正しいかを決められる外部の資料は見つかりませんでした。原名はエリシールラス、長十四間・幅三間で六十七トン、二十五馬力。イギリスで造られたものを宇和島藩が買った、というところまでが当ページの記述で、それ以上のことは確かめられませんでした。
六十七トンという小ささ
六十七トンは、幕末の藩の船としてもかなり小さい部類です。同じ宇和島藩の開産丸が百三十一トン、天保祿丸が二百四十三トンですから、その半分以下ということになります。宇和島藩は十万石で、大きな船を何隻も持てる立場ではありません。提灯職人の前原巧山が造った国産の蒸気船も、小型で機関も弱い船だったと記録されています。買う船も造る船も小さかった藩ですが、日本人の手で蒸気船を動かしたのは薩摩に次いで二番目でした。
神力丸(名古屋藩 スクーナー船)
| 神力丸 | |||
| 藩名 | 尾張藩 | ||
| 藩主 | 徳川慶勝 | ||
| 船種 | スクーナー船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
この船の記録が、見つかりません
神力丸について、原名ワンデレン、百七十五トン、一八五三年のアメリカ建造、文久二年十二月に横浜で買った、という記述の裏づけを、調べた範囲では見つけられませんでした。それどころか、尾張藩が幕末に持っていた船をまとめた資料そのものが見あたりません。六十二万石の御三家筆頭でありながら、この藩の海の備えについて公に読める記録がほとんど残っていないことになります。
青松葉事件
この記事にある青松葉事件は、慶応四年正月の二十日から二十五日にかけての出来事です。名古屋市博物館の解説も、尾張藩が佐幕派とされた藩士十四名を処刑した事件としています。斬首が十四名、隠居や禁固などの処分を受けた者が二十名を数えました。正月二十日に渡辺新左衛門ら三名が斬られたのを皮切りに、二十五日までのあいだに次々と刑が執行されています。藩主の徳川慶勝は、姦徒を誅せよという勅命を受けて帰国した直後にこれを行いました。慶勝は文政七年三月十五日の生まれで、明治十六年八月一日に亡くなっています。
昌光丸(江戸幕府 輸送船)
| 昌光丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 81馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
鉄でできた、小さな船でした
木造が当たり前の時代に、この船は鉄製でした。千八百六十二年にイギリスから買ったもので、原名はナンキン、南京の字を当てています。八十一馬力。同じ文久二年、幕府はやはり鉄製の順動丸をイギリスから十五万ドルで買っていますので、鉄の船を続けて手に入れた年ということになります。ただし順動丸が三百六十馬力だったのに対して、昌光丸は八十一馬力です。大砲も積んでいません。同じ鉄の船でも、役目はまるで違いました。
「内輪」が何を指すのかは、分かりませんでした
当ページは機関を蒸気内輪としています。幕末の記録では外車を外輪、内車をスクリューの意味で使い分けることがあった、という指摘もあるのですが、その用語の対応そのものを確かめられる資料には行き当たりませんでした。ここは分からないままにしておきます。
そのあとが、分かりません
戊辰戦争での動きも、明治に入ってからも、記録が見あたりませんでした。幕府海軍の輸送船の一覧に名前があるだけで、そこにも但し書きはありません。原名の南京から、中国沿岸を走っていた船を長崎か横浜で買ったのではないかと考えたくなりますが、それを裏づける資料はありませんでした。同じころに買われた協隣丸の原名が山東であることも合わせると、いかにもそう思わせるのですが、推測は書かないでおきます。
先登丸(江戸幕府 スクリュー汽船)
| 先登丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
買った船ではなく、幕府が造った船のようです
先登丸について、外国から買ったという記録は見あたりません。かわりに、蒸気船の歴史を扱った記述のなかに「幕府建造船として先登丸という船もあるが、詳細は明らかでない」という一文があり、また「文久年間に徳川幕府が製造した最初の蒸気船 先登丸」という題の論文が国内の文献目録に載っています。この二つからすると、この船は文久のころに幕府が自ら造った蒸気船であった見込みが高いと思われます。
それ以外は、何も分かりません
幕府海軍の艦船を並べた一覧にも、幕末の船をまとめた表にも、先登丸の名はありません。原名も、建造の年も、そのあとどうなったのかも分からず、この記事にある「スクーナー形の蒸気内車」という要目の出どころもたどれませんでした。国産の蒸気船としては佐賀藩の凌風丸が慶応元年、幕府の千代田形が慶応二年に出来ていますので、文久年間の建造であれば、それらより早いことになります。読み方も、ふりがなを振った資料が見つかりません。
弘口丸(伊予松山藩 バーク船)
| 弘口丸 | |||
| 藩名 | 伊予松山藩 | ||
| 藩主 | 松平勝成 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
弘済丸と同じ一隻です
当サイトの弘済丸は、この記事と同じ船を指しています。原名が丹鶴丸で、紀州新宮藩が造ったものを伊予松山藩が買った、という来歴が一致します。愛媛県の資料が三津・高浜の港の記述で用いているのは「文久元年一月に艦船弘済丸」という表記で、「弘口丸」のほうは、ほかに用例を見つけられませんでした。どちらのページも残したうえで、相互に注記しておきます。船の由来や進水式での出来事は、弘済丸のページに書きました。
表の藩主を改めました
この記事の表は、藩主を久松定穀としていました。愛媛県の資料によれば定穀は松平勝善のことで、薩摩藩主・島津斉宣の十一男として文化十四年六月に生まれ、天保三年に松平定通の養子となって定穀の名を与えられた人です。嘉永六年に将軍徳川家定が就くにあたり、諱の一字を避けて勝善と改めました。ただし勝善は安政三年に亡くなっていますので、文久元年に松山にあったこの船の藩主としては合いません。幕末の松山藩主は松平勝成、そして慶応三年からは松平定昭ですので、表を勝成に改めました。なお久松の姓に戻したのは明治元年で、それより前の当主を久松と呼ぶのは、厳密には時期がずれます。
鯉魚丸(江戸幕府 外輪汽船)
| 鯉魚丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 外輪汽船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 355馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
太平丸と同じ船です
このページの船は、当サイトの太平丸と同じ一隻です。三百五十五馬力、蒸気外輪、鉄製という要目が両方のページで一致しており、幕府海軍の艦船を並べた一覧にも「太平丸、旧イギリス商船ライモンで、当初艦名は鯉魚門」という形で一度だけ現れます。つまり鯉魚門が先の名で、太平丸が後の名です。別々の資料からページを作ったために二つに分かれましたので、どちらも残したうえで、こうして相互に注記しておきます。
香港の海峡の名を負った、細長い快速船
鯉魚門は香港島と九龍半島のあいだの狭い海峡の名で、英語ではライーモンと綴ります。この船は一八五九年にロンドンのテムズ造船所で造られた鉄製の外輪蒸気船で、三本の帆柱も備えていました。長さ二百八十二フィート・幅二十七フィートという、長さが幅の十倍を超える船体で、試運転では十七ノットという当時としては際立った速さを出しています。このページにある「長四十六間」はおよそ八十四メートルですから、その二百八十二フィートとよく合う数字です。
史料が使うのは「鯉魚門」です
もっとも、資料に出てくるのは鯉魚門という三文字で、「鯉魚丸」という書き方のほうは確かめられませんでした。丸を付けた形がどこから来たものかは分かりませんので、ここに書き留めておきます。
龍翔丸(江戸幕府 スクリュー汽船)
| 龍翔丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
やけに細長い船です
長十五間半・幅二間半を換算すると、長さおよそ二十八・二メートル、幅およそ四・五五メートルになります。長さと幅の比は六・二対一。同じ幕末の帆船である庄内藩の龍神丸が四・五対一ですから、かなり細い船です。六十六トンという数字も小さく、三百トン級の鶴港丸や健順丸とは、まったく別の種類の船だったことが分かります。
船種の書き方が食い違っています
この船には、記述の食い違いがあります。当ページはスクリュー汽船としながら、機関の欄は帆走、馬力は零となっています。いっぽう幕府海軍の船を並べた一覧では、輸送船のうち外国製の項に入れられています。どちらが正しいのかを判定できる資料には行き当たりませんでした。細長い船型は帆走のスクーナーよりも小型の蒸気船に近いのですが、それは見立てにすぎません。資料によって書き方が違う、というところで止めておきます。
日本初の蒸気軍艦とは、関係がありません
龍翔という名の響きから長崎海軍伝習所の船かと思われることがありますが、そうではありません。伝習所の練習艦は観光丸、咸臨丸、朝陽丸の三隻で、龍翔丸は出てきません。観光丸はオランダのフリシンゲンで千八百五十年に起工され千八百五十三年にできた木造の外輪船で、原名をスームビングといい、安政二年にオランダから献上された船です。龍翔丸との結びつきを示す記録は、どちらの側にも見あたりませんでした。
協隣丸(江戸幕府 輸送船)
| 協隣丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 90馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
名前だけが残っています
正直に書いておきます。この船については、ほとんど何も分かりませんでした。幕府海軍の船を並べた一覧に、協鄰丸という表記で名前があるだけで、注も説明もありません。原名のサントン、つまり山東の字を当てた船がどこで造られたどんな船だったのかも、確かめられませんでした。千八百六十三年にアメリカから買ったという記述も、ほかの資料では裏が取れていません。
買った側の事情なら、分かります
船そのものが分からなくても、幕府がこの時期に何をしていたかは分かります。文久二年、幕府はイギリスから鉄製の外輪船を十五万ドルで買いました。順動丸です。同じころ箱館奉行は二万二千ドルで健順丸を買い、慶応元年には長崎で三万五千メキシコドルの鶴港丸を買っています。数万ドルから十数万ドルの船を、幕府は次々に買い集めていました。協隣丸の九十馬力という小さな外輪も、その流れのなかの一隻です。大砲は積んでいません。軍艦と名がついていても、実際は物と人を運ぶための船でした。
記録が残る船と、残らない船
幕府海軍の一覧を眺めると、船ごとに扱いが違うことに気づきます。沈んだ船には沈んだと書かれ、明治政府へ渡った船には渡ったと書かれています。協隣丸には、何も書かれていません。引き渡された記録も沈んだ記録も、この一覧を作った人の手元になかったということです。咸臨丸のように名を残した船がある一方で、名前だけを残して消えた船が、同じ数だけありました。
八雲丸二番(松江藩 スクリュー汽船)
| 八雲丸ニ番 | |||
| 藩名 | 松江藩 | ||
| 藩主 | 松平定安 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 4門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
一番と二番が揃って、当サイトにあります
松江藩の八雲丸は二隻で、鉄製の八雲丸一番と、木造のこの二番です。研究者のまとめた表によれば、この藩は文久二年に二隻をあわせて十七万二千ドルで買っており、一番は四百四十三トンで大砲八門、二番は百六十七トンで大砲四門でした。この記事にある百六十七トン、大砲四門という数字は、その表と一致します。国立国会図書館には「松江藩海軍歴史年譜 一番及び二番八雲丸の記録」という論文が納められています。
二番が売られた翌月に、一番が沈みました
この記事が伝えるところでは、二番は相次ぐ故障のため明治元年六月に売られ、その翌月に一番が鉱石を運んでいる途中、能登半島の沖で座礁して沈みました。二隻とも、買ってから六年ほどで松江藩の手を離れたことになります。二番のほうは戊辰戦争のさなかにも機関の故障で宮津の港へ入り、京都から来ていた山陰道鎮撫使に疑いをかけられています。動かない船は、それだけで疑われる時代でした。
ほかの船を見る
幕末の艦船は幕末軍艦全140艦の一覧にまとめています。幕府海軍の成り立ちは黒船が変えた日本の海—幕末、わずか十数年で海軍を築いた国の物語をご覧ください。
参考資料:勝海舟『海軍歴史』、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか。

