| 天保祿丸 | |||
| 藩名 | 宇和島藩 | ||
| 藩主 | 伊達宗城 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
■ 詳細
原名「ペムブロック」・長22間・幅3間5尺・243トンです。
どこで建造され、どこで購入したのかは不明です。
所属した宇和島藩と、名君・伊達宗城
この軍艦・天保祿丸を運用したのも、伊予の宇和島藩(伊達家)です。宇和島藩を語るうえで欠かせないのが、藩主・伊達宗城の存在です。
宗城は、松平春嶽・島津斉彬・山内容堂と並んで「幕末の四賢侯」と称された名君でした。中央政局では、将軍後継問題や条約勅許をめぐる会議に加わり、雄藩の立場から幕政の改革を求めます。小藩の主でありながら、その見識で国政に発言力を持った稀有な大名でした。天保祿丸は、その開明の藩・宇和島の一隻です。
幕末軍艦一覧リスト
原名は、下関で撃たれたあの船と同じ名です
この船の原名はペムブロックと記されています。文久三年五月十一日の午前二時、長州藩の砲台と庚申丸、癸亥丸が下関で撃ったアメリカの商船が、ペンブローク号でした。同じ名です。ただし、この二つを結びつける資料は見つかりませんでした。ペンブローク号は船長サイモン・クーパーの指揮で周防灘へ逃れ、豊後水道を抜けて上海へ向かっています。損傷は軽く、死んだ者もいませんでした。そのあとこの船がどうなったのかは、日本の資料にも英語の資料にも追えません。ペンブロークは当時ありふれた船の名でもあります。同じ船ではないかという想像は働きますが、そう書ける根拠はない、というのが正直なところです。
分かっているのは、寸法だけです
長二十二間・幅三間五尺で二百四十三トン。換算すると長さおよそ四十メートル、幅およそ七メートルです。どこで造られ、どこで買ったのかは当ページも不明としており、外部の資料にも天保祿丸という名は見あたりませんでした。読み方も確かめられていません。
宇和島藩は、戊辰では戦っていません
宇和島藩の伊達宗城は文政元年の生まれで、天保十五年に藩主となりました。安政五年の安政の大獄で隠居謹慎を命じられ、家督は養子の宗徳へ移ります。慶応三年には四侯会議に加わり、同じ年の十二月二十八日、新政府の議定となりました。ところが徳川慶喜が朝敵とされると議定を辞し、薩長のやり方に抗議して参謀も辞めています。宇和島藩は戊辰戦争で戦わず、中立を通しました。明治二年に民部卿と大蔵卿を兼ね、明治四年には欽差全権大臣として日清修好条規に調印しています。船を揃えながら、その船で戦うことのなかった藩です。

