| 龍神丸 | |||
| 藩名 | 庄内藩 | ||
| 藩主 | 酒井忠発 | ||
| 船種 | スクーナー船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||

長16間4尺・幅3間4尺 国産。
三十メートルの帆船でした
長十六間四尺・幅三間四尺という寸法を換算すると、長さおよそ三十・三メートル、幅およそ六・六七メートルになります。長さと幅の比は四・五対一。幕府が伊豆の戸田村と石川島で造った君澤形丸が長さ二十二・七メートル・幅六・一メートルですから、それより一回り大きい船ということになります。国産と記されていますので、どこかで日本人の手によって造られたはずですが、いつ、どこで、誰が造ったのかを示す記録は見つかりませんでした。
東北で、同じころに造られた船があります
比べられる船が一隻あります。仙台藩が松島湾の寒風沢島で造った開成丸です。長さおよそ三十三メートル、幅およそ七・五メートルの二本マストの帆船で、安政四年六月二十八日、藩主の臨席のもとで進水しました。指導したのは陶工の三浦乾也です。龍神丸とほぼ同じ大きさになります。ペリーが来て大船の建造禁止が解かれたあと、東北の藩が自前で三十メートル級の洋式帆船を造りはじめていた、その並びのなかに龍神丸も置けるということです。
藩主の名は、造られた年で変わります
伝わる記述では藩主を酒井忠発としていますが、ここは但し書きが要ります。庄内藩の藩主の交代は日付まで分かっていて、忠発が隠居したのが文久元年八月六日、跡を継いだ忠寛が麻疹で亡くなったのが翌文久二年九月十七日、そのあとを忠篤が継いで明治元年十二月七日の改易まで務めました。龍神丸がいつの船か分からない以上、そのときの藩主が誰だったかも確かめられません。
庄内藩にとって、海は守る側でした
庄内藩は陸の戦いに強く、戊辰戦争でも自領にほとんど敵を入れないまま、慶応四年九月二十五日に降伏して二十七日に城を開いています。ところが海は話が別でした。酒田では慶応四年四月十九日、入港する船を停泊させない、船頭や水主を陸に上げない、注文した品は沖で受け取る、という厳しい触が出ています。八月には新政府軍の軍艦が鼠ヶ関を砲撃しました。北前船の湊として栄えた酒田を抱えながら、海から来るものに対しては締めるほかに手がなかったわけです。龍神丸のような帆船一隻では、蒸気の軍艦を相手にできません。
もう一つ、同じ船のページがあります
当サイトには龍神丸のページがもう一つあり、そちらでは東北の藩が自前で洋式船を造りはじめた時期のことを書いています。龍神丸のページもあわせてご覧ください。
龍神丸を船の型と持ち主から読む
龍神丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー船」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している庄内藩の船は、この龍神丸を含めて2隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ庄内藩の船には、龍神丸(スクーナー船)があります。
持ち主の庄内藩—酒田の本間家
酒田と本間家
庄内藩の港町・酒田には、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた日本有数の豪商・本間家がありました。本間家は藩に多額の資金を貸し、藩の財政を支え続けます。幕末には、本間家の資金が庄内藩の洋式の武器の買い入れにも使われたと伝えられます。
船と港
酒田は北前船の寄港地として栄えた港です。龍神丸のような洋式の船を藩が持つことができた背景には、こうした酒田の港と商人の力がありました。戊辰戦争で庄内藩が領内に新政府軍を入れずに戦い抜けたのも、その経済力に支えられたところが大きかったのです。



