| 健順丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
■ 詳細
排水量378tとしか資料が残っていません。
所属した江戸幕府と、海軍総裁・矢田堀鴻
この船・健順丸を運用したのも、江戸幕府です。勝海舟とともに幕府海軍を率いた人物に、矢田堀鴻(景蔵)がいます。
矢田堀は長崎海軍伝習所の第一期生として学び、のちに幕府海軍のトップである軍艦頭・海軍総裁を務めました。勝海舟ほど名は知られていませんが、幕府海軍を組織として支えた実務家です。健順丸は、そうした人々が動かした幕府海軍の一隻でした。全体像は幕末の軍艦のページへ。
幕末軍艦一覧リスト
買ったのは江戸ではなく、箱館奉行でした
この船には、ほかの幕府の船にない珍しさがあります。買ったのが江戸の幕府ではなく、蝦夷地を治めていた箱館奉行だったという点です。原名はアルテヤ、安政三年にあたる千八百五十六年のアメリカ生まれで、木造のバーク、三百七十八トン。文久元年九月、箱館奉行が二万二千ドルで買い取りました。同じころ幕府が買った順動丸が十五万ドルですから、値段の桁がひとつ違います。蝦夷地を守り、物を運ぶための船として、身の丈に合った買い物だったのでしょう。
昆布とナマコを積んで、上海へ行きました
健順丸の航海で、日付まで残っているものがあります。文久三年、この船に上海への渡航が許されました。十二月二十一日に品川沖を出て兵庫に寄り、年が明けた元治元年三月十六日に兵庫を出航、三月二十八日に上海へ着いています。乗っていたのは箱館奉行所の山口錫次郎以下およそ五十人。積んでいたのは昆布やナマコといった俵物、つまり蝦夷地の海産物でした。この航海で千二百八十六両の利益が出ています。軍艦の名で呼ばれてはいますが、やっていたのは商いでした。上海を出たのは五月十四日です。奉行所の役人が五十人がかりで海産物を売りに行き、利益の額まで記録に残した、というところに、この時期の蝦夷地の切実さが出ています。松前藩の領地が幕府の直轄となり、箱館奉行が置かれていた時期のことです。
その先が、分かりません
ここから先の記録が見あたりません。戊辰戦争でどちらについたのか、榎本武揚の艦隊に加わったのか、新政府へ引き渡されたのか、売られたのか沈んだのか。幕府海軍の船を並べた一覧では、沈んだ船や新政府へ渡った船には但し書きが付いていますが、健順丸には何も付いていません。健順という名の由来も分かりませんでした。上海で千二百八十六両を稼いだ話だけが残って、その先が消えています。

