開産丸【宇和島藩 スクーナー船 幕末軍艦】

開産丸
藩名 宇和島藩
藩主 伊達宗城
船種 スクーナー船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図

■ 詳細
原名「アルマー」長15間・幅3間5尺・131トンのアメリカ製。
宇和島藩ではこの船で藩士の操船技術を磨いていました。

目次

所属した宇和島藩と、蘭学者・高野長英

この軍艦・開産丸を運用したのは、伊予の宇和島藩(伊達家)です。進取の気風で知られる宇和島藩は、幕府に追われた学者をも受け入れました。

その一人が、蘭学者・高野長英です。長英は、幕府の対外政策を批判した蛮社の獄で捕らえられ、脱獄して各地を逃れました。宇和島藩主・伊達宗城は、この長英をひそかにかくまい、兵学書の翻訳などにあたらせます。危険を承知で人材を守った宇和島の度量がうかがえます。開産丸は、その宇和島藩の一隻でした。

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藩士に船の操り方を覚えさせるための船でした

原名アルマー、アメリカ製、長十五間・幅三間五尺で百三十一トン。換算すると長さおよそ二十七・三メートル、幅およそ七メートルです。宇和島藩はこの船で藩士の操船を鍛えていました。買った日も値段も仲介した商会も、今回は確かめられませんでした。開産丸という名で調べても、外部の資料には出てきません。

宇和島は、提灯職人が蒸気船を造った藩です

宇和島藩の海を語るなら、買った船より先に、造った船の話になります。前原巧山、もとの名を嘉蔵といい、提灯の紙を張り替えて暮らしていた職人でした。手先の器用さを村田蔵六に見込まれ、藩主の伊達宗城に引き立てられて士分となります。安政元年に西洋式の火輪船の研究を頼まれ、網を曳く轆轤から外輪の仕組みを思いつきました。安政三年から四年にかけては鋳物の蒸気機関を造って実験に失敗し、おつぶし方というあだ名までつけられています。それでも続けて、安政六年二月、蒸気船の試運転に成功しました。宇和島市は、小型で機関も弱い船ではあったが薩摩藩についで日本人の手になる二番目の蒸気船だった、と記しています。蘭書だけを頼りにした仕事でした。

村田蔵六は「ヨーロッパなら大学教授だ」と評しました

村田蔵六、のちの大村益次郎が宇和島へ着いたのは嘉永六年十月の下旬です。月に米六俵の扶持で、兵書の翻訳と軍艦の設計にあたりました。嘉蔵を推したのはこの蔵六で、嘉蔵の作ったからくりの模型を見て才能に惚れ込んだと伝えられます。蔵六は嘉蔵を評して、ヨーロッパであれば大学教授であっただろう、と言ったといいます。安政元年の長崎留学には二人で同道しました。提灯職人と、のちに日本の陸軍の基をつくる男が、並んで長崎へ蘭学を習いに行ったことになります。

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