| 伊東隼之助 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
慶応元年に入隊しほどなく離隊します。
以後の消息は不明です。
伊東隼之助をもっと深く—慶応元年に入って、すぐ辞めています
慶応元年に入隊し、ほどなく離隊しました。それだけが伝わっています。
慶応元年の新選組は、人を大量に集めていました
この年、土方歳三が江戸へ下って隊士を募集しています。石川三郎も逸見勝三郎も、この募集で入りました。京都でも人を入れており、市橋鎌吉は京都での入隊です。
屯所も西本願寺へ移り、隊は大きくなっていきます。島田魁の『英名録』が作られたのが、慶応元年六月ごろ。百五十名の名が並んでいます。
ですが、居着かない人も多かったのです
集めた分だけ、抜けてもいます。
石川三郎は入隊二か月で切腹させられました。町屋の婦女との密通が理由です。芦谷昇は慶応元年に入ってすぐ諸士調役に抜擢されましたが、翌年には三浦啓之助と脱走しています。
局中法度として伝わる五か条は「局ヲ脱スルヲ不許」と定めています。破れば切腹です。それでも人は出ていきました。
「離隊」と「脱走」は違います
当サイトの隊士ページを見比べると、終焉方法の欄に「離隊」と書かれた人と「脱走」と書かれた人がいます。
この人は「離隊」です。届け出て、認められて出たということでしょう。荒木信太郎や池田庄司の「脱走」とは扱いが違います。
入ってみて合わなかった、あるいは家の事情ができた—そういう理由で普通に辞められた時期があった、ということです。局中法度で切腹に追い込まれた話ばかりが知られていますが、辞めた人のほうが実際には多かったのかもしれません。
出身も生没年も分かりません。名簿に名前と、短い在籍期間だけが残っています。
新選組隊士全456名情報
「局中法度」という名前は、同時代の史料に見当たりません
上で「局ヲ脱スルヲ不許」を引きましたので、ここでひとつ断っておかなければならないことがあります。士道ニ背キ間敷事、局ヲ脱スルヲ不許、勝手ニ金策致不可、勝手ニ訴訟取扱不可、私ノ闘争ヲ不許—広く知られているこの五か条を、まとめて記した同時代の史料は、いまのところ見つかっていません。この形で世に広まったのは子母澤寛『新選組始末記』(昭和三年)からで、土方歳三が定めたという筋立ては司馬遼太郎『燃えよ剣』によるところが大きいものです。永倉新八は隊の決まりを「禁令」と呼んでおり、「局中法度」という言い方をしていません。
厳しい決まりがあったことは、疑えません
五か条そのものの出どころが怪しいからといって、隊に厳しい掟がなかったことにはなりません。切腹させられた隊士の記録はいくつも残っていますし、石川三郎のように町屋の婦女との密通を咎められて死んだ者もいます。問題は、後から整えられた五か条の文面をそのまま当時の条文として引いてよいか、という一点です。
脱走した者が、みな追われたわけではありません
実際に隊を抜けた者の扱いを並べてみると、ばらつきがあります。伊木八郎は慶応三年に脱走し、横倉甚五郎が「京師ニテ脱走」と書き、島田魁も名簿に印をつけましたが、追手がかかった記録も処罰された記録もありません。天海勝之進は会津から仙台まで落ちたところで隊を離れ、相場薫三郎にいたっては入隊から二か月ほどで去っています。どちらも罰せられた形跡がありません。掟の条文をどう読むかということと、その掟が誰にどう振るわれたかということは、分けて考えたほうがよさそうです。
伊東隼之助の生きた時代—天満屋の夜
天満屋の警護 慶応三年(1867)十二月七日の夜、京都の油小路の旅籠・天満屋に、紀州藩の三浦休太郎が泊まっていました。龍馬暗殺の黒幕と疑われた三浦を、海援隊・陸援隊の隊士たちが狙っているという情報があり、新選組の斎藤一らが警護に詰めていたのです。
斬り合い その夜、陸奥宗光らが天満屋を襲い、新選組との斬り合いになりました。三浦は軽い傷で助かりましたが、双方に死者が出ています。新選組が京都で戦った最後の大きな事件の一つでした。伊東隼之助は慶応元年に入隊してほどなく隊を離れていますので、この事件のころには、もう隊にいませんでした。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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