| 相場薫三郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 離隊 | ||
慶応元年4月、江戸にて入隊しました。
同7月以前に離隊し以後の消息不明です。
慶応元年の春、江戸で隊士が集められました
相場薫三郎が入った慶応元年四月は、新選組が江戸で人を集めていた時期にあたります。前の年の六月に池田屋事件、七月に禁門の変があり、隊は名を上げると同時に人を減らしていました。そこで近藤勇らが江戸へ下り、隊士を募ります。この募集で入った者のなかには、のちに御陵衛士を率いることになる伊東甲子太郎の一派のように隊を割る者もいれば、相場薫三郎のように数か月で去る者もいました。
三か月で去っています
四月に入って七月より前に離れていますから、隊にいたのは三か月ほどです。新選組の法度は隊を脱けることを厳しく禁じ、背いた者を斬ったことでも知られますが、実際には短いあいだで名簿から消えている者が少なくありません。届け出て去った者と、黙って抜けた者の区別も、いまとなっては分かりません。相場薫三郎がどちらだったのかも伝わらないままです。
京都の屯所は、このころ西本願寺でした
相場薫三郎が京にいた慶応元年の三月、新選組は壬生から西本願寺の北集会所へ屯所を移しています。人数が増えて壬生の民家では収まらなくなったためでした。寺の側にとっては迷惑な話で、のちに不動堂村へ移ってもらうために寺が費用を出した、という経緯も伝わります。入ってすぐ去ったこの隊士が見たのは、その西本願寺の屯所でした。
入った月が、資料によって食い違います
このページでは慶応元年四月に江戸で入隊したとしていますが、別の資料は慶応元年五月に土方歳三が江戸で行った募集に応じて上洛した、と書いています。天保十三年の生まれというところまで記すものもあります。一か月の違いは些細なようでいて、この人の場合は意味を持ちます。離隊が同年七月以前とされているので、在隊がわずか二か月か三か月かという話になるからです。
『英名録』が作られたのが、ちょうどその頃です
島田魁の遺品として霊山歴史館に伝わる『英名録』という隊士名簿があり、作られたのが慶応元年の夏です。隊士の名と出身地が並び、末尾には粛清された者の名が後から書き加えられています。ところがこの名簿について、霊山歴史館の解説は慶応元年六月ごろ・百五十名とし、別の資料は慶応元年七月ごろ・百三十四人として、時期も人数も食い違っています。相場薫三郎が去ったのはまさにこの前後ですから、名簿に載っているかどうかが分かれば在隊の時期を絞れるのですが、そこまでは確認できません。
二か月で辞めても、罰せられていません
板橋の新選組供養塔に、この人の名はありません。碑に刻まれているのは建立された明治九年までに亡くなった隊士とされますので、名がないことは、そのときまだ生きていたか、死んだことが隊の側に伝わっていなかったかのどちらかを意味します。入隊から二か月ほどで去ったこの人に、追手がかかった記録も罰せられた記録もありません。伊東隼之助のページに書いたとおり、脱走を切腹と定めたという五か条そのものが、同時代の史料では確かめられていないものです。志を抱いて江戸から京まで上ってきた人が、夏を越さずに帰っていく—記録に残らないのは、そういう人のほうがむしろ多かったのかもしれません。
相場薫三郎の生きた時代—厳しい隊の掟
局中法度 新選組には、「士道に背くまじきこと」「局を脱するを許さず」などを定めた厳しい掟があったと伝えられます。のちに「局中法度」と呼ばれるもので、これに背いた隊士の多くは切腹させられました。隊を勝手に離れることも重い罪とされ、脱走した者が連れ戻されて切腹させられた例もあります(新選組の切腹・粛清一覧)。
離隊した人々 その一方で、病や家の事情などで、正式に許されて隊を離れた人もいました。相場薫三郎のように「離隊」と記された隊士の多くは、記録が少なく、その後の行方はわかっていません。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:吉村貫一郎(助勤)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

