| 荒木信太郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 脱走 | ||
慶応二年頃に入隊し鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還します。
その後、隊を脱走し以後の消息は不明です。

荒木信太郎をもっと深く—江戸へ帰って、そこで消えました
慶応二年ごろに入隊し、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸へ帰還したあと、隊を脱走しました。以後の消息は分かっていません。
慶応二年に入るということ
この年、新選組は組織として完成に近づいていました。池田屋から二年、三条制札事件のあった年です。京都の治安を預かる部隊として、幕府にも会津藩にも認められていました。
入った人は、そういう隊に入ったつもりだったはずです。その一年半後に隊が賊軍になるとは、まだ誰も思っていません。
鳥羽・伏見、そして江戸
慶応四年正月、新選組は伏見奉行所で薩摩の砲撃を受けました。刀と槍で市中を取り締まってきた部隊が、大砲と小銃の戦場に置かれたのです。井上源三郎も逸見勝三郎も、この戦いで死んでいます。
敗れた新選組は、富士山丸などで江戸へ引き揚げました。
江戸で、多くの隊士が去りました
ここが分かれ目でした。京都を失った時点で、京都の治安部隊に入った理由は消えています。
上坂甲太郎は江戸で離隊しました。岩崎一郎はいったん甲陽鎮撫隊に加わったあと彰義隊へ移っています。伊藤主計は慶応三年のうちに去りました。
荒木信太郎は脱走と記録されています。離隊と脱走の違いは、届け出たかどうかです。局中法度として伝わる五か条は脱走を切腹と定めていますが、江戸へ引き揚げたあとの新選組に、脱走者を追う余力はもう残っていませんでした。
そして記録が切れます
慶応四年の江戸で消息が途切れる隊士は少なくありません。このあと隊は甲州で敗れ、流山で近藤勇を失い、会津を経て蝦夷へ渡ります。そこまでついていった人だけが、その後の記録に名を残しました。
江戸で降りた人の行方は、たいてい分かりません。

脱走と戦死、二つの記録が残っています
江戸で消えたと上に書きましたが、この隊士については、食い違う記録が二つ残っています。別名を信三郎といい、慶応二年ごろに入隊して、慶応三年六月には見廻組並御雇の格を受けました。問題はその先です。横倉甚五郎は「江戸ニテ脱走」と書き残しました。ところが島田魁は、名簿にこの人の名の下へ戦死の印を押しています。同じ一人について、隊の側が残した記録が、脱けたと死んだに割れているわけです。
板橋の碑には、名が刻まれています
そして東京都北区滝野川の新選組供養塔の左側に「荒木信三郎」の名が刻まれています。この碑は明治九年、永倉新八が発起人となり、旧幕府の医師だった松本良順の協力を得て建てたもので、平成十五年に北区の指定有形文化財になりました。刻まれているのは建立までに亡くなった百十人ですから、永倉はこの人を死んだ者として碑に入れたことになります。島田魁の戦死印とは合い、横倉甚五郎の脱走記録とは合いません。別人という可能性も残りますが、隊士名簿に「荒木信三郎」が別立てで出てこないことを考えると、同じ人とみるのが自然です。
どちらが正しいかは、決められません
脱走したあとに江戸のどこかで死んだ、と考えれば両方が立ちますし、脱けたのを見た者と死んだと聞いた者がそれぞれ別に書き留めた、と考えることもできます。同じころ江戸で亡くなった隊士に安藤雅次郎がいて、こちらは『元新撰組連名』が病死と記しています。鳥羽・伏見から引き揚げてきた隊がばらけていく時期で、誰がどこでどうなったかを一人ずつ確かめられる状態ではありませんでした。伊木八郎のように脱走と記録されながら追われた形跡のない隊士もいますので、記録に残った一語だけでその人の最期を決めてしまわないほうがよさそうです。
荒木信太郎の生きた時代—三条制札事件
三条大橋の高札 慶応二年(1866)九月、京都の三条大橋のたもとに幕府が立てた、長州藩の罪を記した高札(制札)が、何者かに引き抜かれて鴨川に捨てられる事件が続きました。新選組は見張りを置いて待ち伏せし、九月十二日の夜、高札を抜こうとした土佐藩士たちと斬り合いになります。三条制札事件です(三条制札事件とは)。
土佐藩との対立 この斬り合いで土佐藩士の一人が死に、一人が捕らえられました。新選組と土佐藩の関係はこの事件でさらに悪くなります。新選組が京都で名を上げる一方で、隊を去る者もいました。荒木信太郎が入隊したとされるのも、このころです。隊を脱けたのは、鳥羽伏見の戦いのあと江戸へ帰ってからでした。
慶応二年、荒木信太郎が入ったころの新選組
長州との戦と、新選組
荒木信太郎が加わったとされる慶応二年、幕府は長州藩との二度目の戦いに踏み切りましたが、各地で敗れました。七月には将軍家茂が大坂城で亡くなっています。新選組はこの戦には出陣していませんが、前の年から近藤勇が幕府の使いに従って広島へ下るなど、長州をめぐる動きにかかわっていました。九月には、三条大橋の制札を引き抜こうとした土佐藩士たちを新選組が襲う三条制札事件が起きています。このころの主な幹部は次のとおりです。慶応元年ごろに整えられた顔ぶれで、総長の山南敬助はすでにいません。
- 局長:近藤勇
- 副長:土方歳三
- 参謀:伊東甲子太郎
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
移り変わる組長
この年の秋ごろには、五番組長の武田観柳斎が隊を離れました。洋式の調練が広まり、武田の得意とした古い軍学が重んじられなくなったことが背景にあったとされます。最盛期を迎えた隊の中でも、幹部の顔ぶれは少しずつ変わっていきました。
参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:新井破摩男(局長附)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



