芦谷昇【新選組隊士 諸士取調役兼監察 幕末】

芦谷昇
職名 諸士取調役兼監察
出身 肥後
終焉場所 不明
終焉方法 脱走

資料によっては「芦屋昇」と書かれます。当サイトでは「芦谷昇」に表記をそろえています。

慶応元年京坂にて入隊しました。
慶応二年に三浦敬之助とともに脱走し以降の消息は不明です。

三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)
三条木屋町の池田屋跡に掲げられた「池田屋騒動」の説明看板(京都市中京区)(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

芦谷昇をもっと深く—監察の実務が分かる、数少ない記録

肥後(熊本)の出身。慶応元年の初めに入隊し、すぐに諸士調役へ登用されました。異例の抜擢です。

表記は「芦谷昇」と「芦谷昇」の二系統があり、慶応元年の編成表では「芦谷昇」が多く見られます。

監察が実際に何をしていたか

新選組の監察方といえば山崎烝が有名ですが、「監察が実際にこういう仕事をした」と具体的に分かる記録は、意外なほど少ないのです。芦谷昇には、それが二件残っています。

  • 慶応元年閏五月—捕らえられた大洲藩の国学者・矢野玄道の訊問にあたる
  • 慶応元年十一月—長州藩訊問使の一行として広島へ同行

捕縛者を取り調べ、幕府の使節に随行して長州との交渉の場に立ち会う。斬り合いではなく、聞き取りと記録の仕事です。監察方が「内務監察」と「探索」を兼ねた部署だったことが、この二件からよく分かります。

慶応元年三月から四月の編成では、島田魁・山崎丞・篠原泰之進・新井忠雄・服部武雄・吉村貫一郎・尾形俊太郎と並んで名があります。入隊から数か月で、この顔ぶれに入りました。

そして、脱走します

慶応二年七月ごろ、三浦啓之助とともに新選組を脱走しました(時期は慶応二年とも三年とも伝わり、諸説あります)。

三浦啓之助は、佐久間象山の子です。父を暗殺された少年が新選組に入り、隊になじめないまま出ていった—その脱走に、芦屋が同行したことになります。

興味深いのは、新選組がこの脱走を黙認したらしいことです。局中法度として伝わる五か条は脱走を切腹と定めていますが、この二人に追手がかかった記録がありません。象山の子を斬るわけにはいかなかった、ということかもしれません。

糸川清太郎として

脱走後、芦屋は糸川清太郎と改名しました。佐久間父子の故郷である松代へ赴き、そこで乱暴を働いて横浜へ逃げ、維新後は熊本へ戻ったと伝わります。少なくとも明治二十七年までは生きていたようです。

生没年はどちらも分かっていません。『新選組大事典』の芦屋の項は六十字ほどしかない、と指摘されています。訊問と随行という具体的な仕事の記録が残っているのに、いつ生まれていつ死んだかは分からない。隊士の記録の残り方は、たいていこういう具合です。

いっしょに脱けた三浦啓之助とは、誰だったのか

脱走の相手として名の挙がる三浦啓之助について、書いておきます。この人は佐久間象山の子でした。象山は元治元年七月、京の三条木屋町で尊攘派に斬られています。父を殺された三浦は、会津藩の山本覚馬に仇討ちを勧められて新選組へ入りました。つまり隊に入った動機が、隊の仕事とは何の関係もないところにあったわけです。

隊のなかでの評判

在隊中の三浦については、芦谷昇らとともに粗暴なふるまいがあったと記されています。浅野薫が土方歳三とともにこの人を国もとへ帰そうと試みたという記録もあり、そのときは三浦自身が拒んで実りませんでした。帰そうとした浅野と、連れて脱けた芦屋と、三浦を挟んで二人の監察が正反対の位置にいたことになります。

脱走に追手がかからなかったのかどうか

この脱走について新選組は黙認していたようだ、と書く資料があります。ただし、なぜ追わなかったのかを説明した記録は見つかりませんでした。佐久間象山の子だから手を出せなかったのだ、という言い方をときどき目にしますが、そう書いた史料は確かめられていません。伊東隼之助のページに書いたとおり、脱走した者がみな追われたわけではありませんので、この件だけが特別だったのかどうかも分かりません。脱けた年も、慶応二年とするものと三年とするものがあって定まっていません。

三浦のその後

三浦啓之助は慶応四年に勝海舟の紹介で慶應義塾へ入り、のちに司法省へ出仕しますが、警察官と喧嘩を起こして免職になりました。それでも松山県の裁判所で判事をつとめ、明治十年に三十歳ほどで亡くなっています。新選組を脱けたあと、新しい国の役人になった隊士が何人もいるなかで、この人はその典型のような道をたどりました。いっぽう芦谷昇のほうは、脱走したあとの消息がまったく伝わっていません。同じ日に同じ門を出た二人が、片方は官報に名が載る立場になり、片方は記録から消えたことになります。

芦谷昇の生きた時代—肥後の人斬り・河上彦斎

肥後の尊攘派 芦谷昇は肥後(熊本藩)の出身です。肥後からは、池田屋事件で倒れた宮部鼎蔵のような尊王攘夷の志士が多く出ました。その中でも「人斬り彦斎」と恐れられたのが河上彦斎です。

佐久間象山の暗殺 元治元年(1864)七月十一日、河上彦斎は京都の三条木屋町で、開国を説いていた信州松代藩の佐久間象山を斬りました。同じ肥後の出身でありながら、芦屋は浪士を取り締まる新選組の側に立って監察を務めています。同郷の人々の中にも、まったく逆の道を歩む者がいたのです。

慶応元年の新選組と、肥後の志士たち

入隊したころの幹部

芦谷昇が京坂で加わった慶応元年、新選組は総勢およそ二百人に達し、屯所を西本願寺に移していました。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇/副長:土方歳三/参謀:伊東甲子太郎
  • 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
  • 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
  • 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
  • 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助

池田屋で倒れた同郷の人

芦谷の故郷・肥後からは、幕末に名の知られた尊王攘夷の志士が何人も出ています。その一人、宮部鼎蔵は、元治元年の池田屋事件で新選組に襲われて命を落としました。同じ肥後の河上彦斎は、宮部らとともに尊王攘夷の運動に加わった人物で、元治元年七月に京都で佐久間象山を斬ったことで知られます。肥後の出身でありながら新選組に身を置いた芦谷は、同郷の志士たちとは反対の側に立っていたことになります。

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

◀ 前の隊士:浅野薫(諸士取調役兼監察)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

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