逸見勝三郎【新選組隊士 平隊士 幕末】

逸見勝三郎
職名 平隊士
出身 甲州甲府
終焉場所 鳥羽伏見の戦い
終焉方法 戦死

慶応元年に江戸にて入隊しました。
鳥羽伏見の戦いで戦死しました。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

逸見勝三郎をもっと深く—甲州から出て、鳥羽伏見で死にました

出身は甲州甲府。慶応元年に江戸で入隊し、慶応四年正月の鳥羽・伏見の戦いで戦死しました。

甲府には藩がありません

まず土地のことから書きます。幕末の甲府に、藩はありません。享保年間に柳沢家が大和郡山へ移されて以降、甲斐一国は幕府の直轄領となり、甲府勤番が置かれていました。

つまりこの人には仕えるべき藩主がいません。甲斐から出て新選組に入るというのは、藩を通さずに直接幕府方へ身を投じることでした。同じ甲斐の出では、新井破摩男が戊辰の始まったあとに入隊しています。

慶応元年、江戸での募集

入隊は慶応元年、江戸でのことでした。この年、土方歳三が江戸へ下って隊士を募集しています。石川三郎が入ったのも、同じ募集です。

この募集で入った隊士たちが、三年後に鳥羽伏見を戦うことになります。

慶応四年正月三日、鳥羽・伏見

新選組は伏見奉行所に布陣しました。そして薩摩の砲撃を正面から受けます。

この戦いで、新選組は隊としての形を失いました。刀と槍で市中を取り締まってきた部隊が、大砲と小銃の戦場に置かれたからです。井上源三郎もこの戦いで戦死しています。

逸見勝三郎は、その伏見で死にました。

そして三か月後、甲州へ

皮肉な巡り合わせがあります。江戸へ引き揚げた新選組は、慶応四年三月、甲陽鎮撫隊として甲州へ向かいました。近藤勇が大久保剛と名を変えて率いた、あの部隊です。

行き先は甲府城でした。逸見勝三郎の故郷です。ですが到着は板垣退助の軍に先を越され、勝沼で敗れます。池田七三郎が顔の右半分を貫通する重傷を負ったのも、この戦いでした。

甲州から出てきた隊士が伏見で死に、その三か月後に、隊が彼の故郷を目指して敗れる。本人はそれを知らずに死んでいます。

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会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

「甲陽鎮撫隊」という名前は、後からついたものです

三か月後に隊が甲州へ向かったことを上に書きましたが、あの部隊の呼び名について、ひとつ断っておかなければならないことがあります。「甲陽鎮撫隊」という言い方は同時代の史料に見当たらず、活字に現れるのは明治三十二年が最初とされています。当時の記録は単に「鎮撫隊」と記しました。いまの呼び名で広まったのは、子母澤寛の著作を通じてのことです。

人数も装備も、史料が食い違います

慶応四年二月二十八日、徳川家から甲府を鎮めよという命が下り、翌二十九日には会津藩から千二百両、松本良順から三千両の資金が出ました。ところが出陣した人数となると、二百人に足りないとするものと、江戸を出たときは約三百人で勝沼に着いたのは百二十一人だったとするものがあって、一致しません。装備も同じで、『島田魁日記』は大砲六門・元込小銃二十五梃・ミニエー銃二百梃とし、永倉新八の『浪士文久報国記事』は大砲八門・元込め銃三百梃としています。当事者が書いたものどうしですら、この開きです。

三月六日、勝沼

新政府軍は三月一日にすでに三千ほどで甲府城へ入っていました。隊の到着は天候と統制の乱れで遅れ、六日の戦いでは大砲を砲撃で壊され、兵が逃げて敗走します。八王子のあたりで散り散りになり、そのあと永倉新八と原田左之助は会津での抗戦を唱えましたが、近藤勇が「自分の家臣として働くなら」と答えたことで決裂し、二人は隊を離れて靖兵隊を作りました。近藤が流山で捕らえられて板橋で処刑されるのは、その翌月のことです。逸見勝三郎はこの甲州行きを見ていません。正月の鳥羽・伏見で死んでいるからです。甲州甲府の出とされるこの人にとって、故郷が戦場になるのは死んだあとのことでした。

逸見勝三郎の生きた時代—甲府城

甲府城と甲府勤番 逸見勝三郎の故郷・甲府には、幕府の直轄の城・甲府城がありました。江戸時代の中ごろからは、旗本たちが交代で城を守る「甲府勤番」が置かれていました。江戸から遠く離れた甲府への勤番は、旗本にとってはあまり望まれない役目だったといわれます。

新選組が目指した城 慶応四年(1868)三月、新選組は甲陽鎮撫隊として、この甲府城を押さえるために甲州へ向かいました。しかし板垣退助の新政府軍が先に入城し、新選組は勝沼で敗れます。甲府出身の逸見は、この甲州行きを待たず、二か月前の鳥羽伏見の戦いで命を落としていました。

入隊したころの新選組の顔ぶれ

江戸から上った隊士

逸見勝三郎が江戸で入隊した慶応元年、新選組は江戸で隊士を募り、加わった者たちを京都へ送っていました。総勢は最も多いときでおよそ二百人に達したとされ、屯所も壬生から西本願寺へ移りました。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
  • 参謀:伊東甲子太郎
  • 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
  • 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
  • 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助

甲府勤番の町

逸見の故郷・甲府は、江戸時代の半ばから幕府の直轄地で、甲府城には江戸から旗本が「甲府勤番」として送られていました。大名の城下町ではなく、幕府の役人が治める町です。慶応四年三月、近藤勇は甲陽鎮撫隊を率いてこの甲府城を目指しましたが、新政府軍に先を越され、勝沼の戦いで敗れました。

参考資料:Wikipedia日本語版「逸見勝三郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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