伊藤浪之介【新選組隊士 平隊士 幕末】

伊藤浪之介
職名 平隊士
出身 京都
終焉場所 京都
終焉方法 獄死

慶応元年に入隊し三条制札事件に出勤します。
伏見町奉行所移転前に隊を脱走し明治三年常住院に押し入り住職を殺害。
その後獄死したと伝わります。

壬生の八木邸の門前(京都市中京区)
壬生の八木邸の門前(京都市中京区)。新選組が最初に屯所を置いた家です(現地取材の記事・筆者撮影)
目次

伊藤浪之介をもっと深く—維新のあとに罪を犯した、と伝わる隊士

京都の出身。慶応元年に入隊して三条制札事件に出動し、伏見町奉行所への移転前に脱走。そして明治三年、常住院に押し入って住職を殺害し、獄死したと伝わります。

先に、この話の確からしさについて

断っておかなければなりません。明治三年の常住院の一件は、ウェブ上のどの資料でも裏を取ることができませんでした。複数の隊士名簿に名前は載っていますが、この逸話を記した個別の記述が見つかりません。

おそらく活字の隊士名鑑が原典です。以下は「そう伝わっている」という前提で読んでください。

三条制札事件には出ています

慶応二年九月、三条大橋の高札が三度も抜かれて鴨川に捨てられる事件が起きました。新選組は三か所に四十人以上を伏せて張り込みます。

三条会所に原田左之助ら十二人、酒屋に新井忠雄ら十二名、橋むこうの町屋に大石鍬次郎ら十人。橋のたもとには浅野薫と橋本皆助が斥候として立ちました。蟻通勘吾も三番組で出ています。

伊藤浪之介も、この夜そこにいた一人です。

京都出身、という点

新選組の隊士は、武州多摩や江戸、諸藩の脱藩者が中心でした。京都そのものの出身者は多くありません。

市中を取り締まる側に、その市中で生まれ育った人間がいた。取り締まられる住民にとっては、顔見知りが「壬生狼」の一員になったように見えたかもしれません。

伏見への移転前に脱走しています

新選組は慶応三年十二月、伏見奉行所へ移りました。鳥羽・伏見の戦いは、その直後です。この人は移転の前に隊を出ているので、鳥羽伏見は戦っていません。

そして明治三年の一件が本当なら、維新から二年後ということになります。刀を取り上げられた元隊士が、その後どう生きたのか。この人の記録は、そこに触れている数少ない例です—ただし、裏は取れていません。

新選組隊士全456名情報

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名前も出身も、資料によって違います

この隊士の名は、少なくとも三通りに書かれています。三条制札事件の褒賞名簿では「伊藤浪之助」、隊士名簿の類では「伊東浪之介」、別の資料では「伊藤浪乃介」。姓の字も名の字も揺れていて、当サイトの「伊藤浪之介」はそのうちの一つということになります。出身もまた割れていて、このページは京都としていますが、薩摩の出と記す資料もあります。京と薩摩では、幕末の京都においてまるで意味の違う出自です。

褒賞は最高額を受けています

名前も出身もはっきりしないこの隊士ですが、慶応二年十二月の褒賞名簿にははっきり名があります。しかも二十両で、これは原田左之助や新井忠雄と同じ最高額でした。二十両を受けたのは四人だけです。蟻通勘吾や池田小三郎が受けた千疋が二両二分ですから、その八倍にあたります。七番組として出動したとされますので、三条大橋のたもとで実際に刃を合わせた組にいたのでしょう。ただしこの名簿は西村兼文『新撰組始末記』にしか出てこないもので、会津藩の公式記録で裏づけられてはいません。

脱走の時期について

慶応三年十二月、新選組は西本願寺の近くの不動堂村から伏見奉行所へ移ります。鳥羽・伏見の戦いが始まるのは、その翌月です。この隊士が隊を離れたのは移転より前とされていますので、戦が始まる直前に京を去ったことになります。幕臣に取り立てられてまだ半年ほど、二十両を受けてから一年ほどでした。そのあと明治になって罪に問われたという話については、上に書いたとおり確からしさに難があります。

慶応二年の三条制札事件については、三条制札事件とは—三条大橋の高札をめぐる新選組と土佐藩士の斬り合いにまとめています。

伊藤浪之介の生きた時代—明治に裁かれた隊士たち

明治三年 伊藤浪之介が獄中で亡くなった明治三年(1870)、新選組にいた人々の中には、なお罪を問われる者がいました。箱館で最後の新選組の隊長を務めた相馬主計も、この年、伊豆の新島への流罪を言い渡されています。相馬はのちに許されて東京に戻りましたが、その数年後に自ら命を絶っています(新島と相馬主計の現地取材)。

龍馬暗殺の疑い 明治になってから、坂本龍馬の暗殺についての取り調べも行われ、新選組の生き残りや京都見廻組の人々が問いただされました。新選組の名は、明治の世になっても重くのしかかっていたのです。

入隊したころの新選組と、京都の町

京都の人が入った新選組

伊藤浪之介が加わった慶応元年、新選組は総勢およそ二百人という最大の規模に達したとされます。江戸での募集で加わった者が多い一方で、京都や大坂で直接加わる者もいました。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
  • 参謀:伊東甲子太郎
  • 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
  • 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
  • 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助

どんどん焼けのあとの京都

前の年の元治元年七月、禁門の変の戦火は京都の町に燃え広がり、二万八千戸ともいわれる家々が焼けました。京都の人びとが「どんどん焼け」と呼んだ大火です。伊藤が入隊したのは、その焼け跡から町が立ち直ろうとしていたころでした。長州の兵を退けた新選組は、京都の町の人びとにとって、恐れと頼りの両方を感じさせる存在だったと考えられます。

参考資料:Wikipedia日本語版「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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