| 石川三郎 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 不明 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
慶応元年に江戸にて入隊しました。
入隊後まもなく施山多喜人とともに町家婦人と密通したとして切腹します。
石川三郎をもっと深く—入隊から二か月で切腹させられた隊士
弘化二年生まれ。切腹の記録には「石川三郎源義元」と名乗りが残っています。
二か月です
入隊は慶応元年四月。土方歳三が江戸で行った隊士募集に応じて入りました。
そして慶応元年六月二十一日、施山多喜人とともに切腹させられます。享年二十一。入隊からわずか二か月でした。
理由は町屋の婦女との密通とされます。局中法度として伝わる五か条は「士道ニ背キ間敷事」を第一に掲げており、これに触れたという扱いです。
記録に残る形
「取調日記」と「往詣記」に、「施山多喜人源泰朝」「石川三郎源義元」が同日同所で切腹と記されています。処罰の理由を密通とするのは、西村兼文の『新撰組始末記』です。
相手の施山多喜人は、入隊希望者の名簿にある「布施鍋三郎」が改称した人物ではないか、と推測されていますが確定していません。
なお二人は、Wikipediaの「新選組隊内において粛清された隊士」の一覧には載っていません。粛清というより、隊規違反の処断として扱われているようです。
「密通」だったのかどうか
ここには疑問も出されています。入隊二か月の隊士が二人そろって同時に処断されるというのは、いかにも不自然だからです。
実態は密通ではなく、婦女への暴行だったのではないかという見方があります。ただしこれは研究者やブログレベルの推測で、史料に裏づけがあるわけではありません。
光縁寺に眠っています
墓は京都市下京区四条大宮の光縁寺。新選組の隊士が多く葬られた寺です。
剣を振るう機会もないまま、江戸から京へ来て二か月で腹を切らされた若者が、いまも壬生の近くに眠っています。隊の掟が実際に人を死なせた例として語り継がれている一件です。
新選組隊士全456名情報
事由を書いた史料は、一つだけです
密通だったのかどうかという話を上に書きましたが、史料の並べ方をもう少しはっきりさせておきます。石川三郎の切腹を記録している史料は複数あり、いずれも日付が一致します。『取調日記』に「六月廿一日切腹 石川三郎」、光縁寺の過去帳にあたる『往詣記』に「石川三郎源義元 六月廿一日」、そして光縁寺の墓碑に「石川三郎源義元墓 六月廿一日没」。慶応元年六月二十一日、二十一歳でした。
三つとも、理由を書いていません
ところがこの三つの記録は、いずれも切腹した事実と日付だけを記していて、なぜ切腹したのかには触れていません。「町家の婦に密通したる聞こえあるをもって、隊規を犯せり」と書いているのは西村兼文『新撰組始末記』であり、事由を伝えているのはこの一本だけということになります。西村は西本願寺の侍臣として同じ時代を生きた人ですが、新選組に敵対する立場から書いており、誇張が多いと評されてきた書き手です。処断されたこと自体は動きませんけれども、何をしたから処断されたのかは、一人の書き手の言い分に拠っているのが現状です。
同じ日に、もう一人切腹しています
同じ六月二十一日、勘定方の施山多喜人も切腹しました。『取調日記』にも『往詣記』にも二人の名が並んでいて、『往詣記』は施山を「源泰朝」の名乗りで記しています。板橋の新選組供養塔には「布施多喜人」という表記で刻まれており、同じ人を指しているとみられます。石川三郎の名も同じ碑にあります。二人が同じ日に死んだことは記録が揃っているのに、二人が何をしたのかは揃っていない—切腹の記録とは、そういうものでした。
石川三郎の生きた時代—光縁寺に眠る隊士たち
切腹した隊士の墓 新選組では、隊の掟に背いた隊士の多くが切腹を命じられました。その隊士たちの多くが葬られたのが、屯所に近い四条大宮の光縁寺です。光縁寺の住職は、新選組の総長・山南敬助と親しかったと伝えられ、山南をはじめ、切腹や戦いで亡くなった隊士たちの墓が並んでいます(光縁寺に眠る新選組隊士たち)。
記録に残る名 光縁寺には、隊士たちの名と亡くなった日を記した過去帳も伝わっています。石川三郎のように、ほかの記録ではほとんど名前しか知られていない隊士の消息も、こうした寺の記録によってわずかに確かめることができるのです。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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