| 美嘉保丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | バーク級曳航船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
■ 詳細
プロシャで建造しました。原名「ブランデンブルグ」。1865年長崎で購入しました。榎本艦隊に輸送艦として参加し、開陽丸に曳航されながら北上するも鹿島灘で台風に遭遇。開陽との間を繋いでいたケーブル二本が切断され、房州沖の犬吠埼夫婦ヶ浜で座礁しました。乗組員は現場で解隊しそれぞれの道を歩みました。
なお、旧幕府遊撃隊「伊庭八郎」もこの船に搭乗しており、一度江戸へ避難し再び函館五稜郭へ渡っています。榎本脱走艦隊の武器弾薬の多くがこの美嘉保丸に積載されていたため、榎本軍にとってこの座礁はのちの戦に大きく影響しました。
所属した江戸幕府と、榎本艦隊の脱走
この船・美嘉保丸は、江戸幕府の軍艦で、旧幕府艦隊の悲劇を象徴する一隻です。
慶応四年(1868)八月、榎本武揚は新政府への抵抗を期して、品川沖から八隻の艦隊を率いて蝦夷地をめざしました。ところが途中で激しい暴風雨に遭い、美嘉保丸は座礁して失われてしまいます。北へ向かう船団を襲った嵐は、旧幕府軍の前途の多難を予感させました。詳しい戦いは五稜郭のページへ。
幕末軍艦一覧リスト
この船を失ったことが、箱館の戦いに響きました
この記事にあるとおり、榎本の艦隊が北へ向かうときに積んでいた武器と弾薬の多くが、美嘉保丸に載せられていました。銚子の犬吠埼のそばで座礁したことで、榎本軍はそれを丸ごと失ったことになります。品川を出たのは明治元年八月十九日、八隻の艦隊でした。軍艦が開陽丸・回天丸・蟠竜丸・千代田形、輸送船が咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美嘉保丸です。このうち美嘉保丸は銚子で失われ、咸臨丸も嵐で傷んで清水港へ入ったところを新政府に捕らえられました。艦隊は北へ着く前に、八隻のうち二隻を落としたことになります。
伊庭八郎が乗っていました
この船には、旧幕府の遊撃隊を率いた伊庭八郎が乗っていました。伊庭は箱根の戦いで左手を失いながらなお戦い続けた剣客として知られる人物で、座礁のあといったん江戸へ戻り、そのうえで改めて箱館へ渡っています。乗組員が浜で解散し、それぞれの道を選んだなかで、北へ行くほうを選んだ一人でした。
プロイセンで生まれた船
原名はブランデンブルクといい、プロイセンで造られた船を慶応元年に長崎で買ったものです。当サイトに並ぶ幕末の軍艦を見渡しても、ドイツ語圏で造られた船は多くありません。曳かれる側の曳航船という役どころで艦隊に加わり、開陽丸との間に渡した二本の綱が鹿島灘の台風で切れたところから、この船の最期が始まりました。

