| 富士山丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | シップ級コルベット | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 12門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 350馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
文久二年閏八月二十一日、幕府が南北戦争のさなかのアメリカへ発注した大型艦です。ニューヨークのウェスターベルト社で造られ、元治元年六月に完成しました。値は二十四万ドルとされます。ただし下関戦争が起きたため、リンカーン大統領が出航を差し止め、日本へ着いたのは慶応元年十二月七日でした。慶応二年の第二次長州征討に加わり、六月八日に周防大島の油宇村を砲撃しています。慶応四年四月十一日に旧幕府から上納され、四月二十八日に正式に新政府のものとなりました。
アメリカ製の木造軍艦「富士山丸」
富士山丸は、幕府がアメリカに発注した木造のシップ型軍艦(スループ)で、1864年にニューヨークで竣工し、1866年(慶応2年)に横浜へ到着して幕府に引き渡されました。スクリュー推進の蒸気機関を備えた、幕末期としては有力な洋式軍艦の一隻です。
清水港での咸臨丸捕獲
戊辰戦争では、富士山丸は新政府側の戦力として運用されました。1868年(明治元年)9月、駿河の清水港において、漂着していた旧幕府艦・咸臨丸を、武蔵丸らとともに攻撃・捕獲した戦いにも加わっています。
新政府海軍から練習艦へ
その後、富士山丸は明治新政府に引き継がれ、海軍兵学寮の練習艦として次代の海軍士官の育成に用いられました。実戦の第一線を退いたのちも、日本海軍の草創期を人材面から支えた艦として長く在籍し、明治中期に除籍されています。
富士山丸をもっと深く——リンカーンに足止めされた新造艦
アメリカへ発注した三隻
文久二年閏八月(1862年)、幕府はアメリカへスループ二隻とガンボート一隻を発注しました。そのうちの一隻が富士山丸です。1864年六月、ニューヨークのウェスターウェルト社で完成しました。価格は二十四万ドル。
ところが船は日本へ来ありませんでした。この年、下関で長州藩と列強が撃ち合う下関戦争が起きたためです。日本が列強と交戦している最中に軍艦を引き渡すわけにいかないとして、リンカーン大統領が出航を差し止めました。
横浜に着いたのは慶応元年十二月(1866年一月)。発注から三年余りが経っていました。開陽丸は注文から到着まで五年かかっています。幕府が最新鋭艦を注文しても、届くころには情勢が変わってしまう——これが幕末の海軍整備につきまとった問題でした。
| 建造 | アメリカ・ニューヨーク(1864年) |
|---|---|
| トン数 | 1,000英トン |
| 形式 | 木造シップリッグ型スループ |
| 推進 | スクリュー2軸 |
| 出力 | 180名馬力 |
| 備砲 | 12門(諸説あり) |
| 購入価格 | 240,000ドル |
味方を捕まえる側へ
慶応二年、富士山丸は第二次長州征討の大島口に投入されました。そして慶応四年、戊辰戦争が始まります。
榎本武揚は蝦夷地へ渡るにあたり、この艦を含む四隻を新政府へ引き渡しました。全艦を連れて行けば完全な反逆と見なされる、という政治判断だったとされます。
その結果、明治元年九月、富士山丸は清水港で咸臨丸を捕獲する側に回りました。オランダから来た老朽艦を、アメリカから来た新造艦が捕まえたことになります。どちらもかつては幕府の船です。
海軍兵学寮の練習艦として
明治二年に政府海軍へ編入され、明治四年からは海軍兵学寮の練習艦となりました。旧幕府が発注した最新鋭艦が、明治海軍の士官を育てる船になったわけです。
明治九年に機関を撤去され、明治二十二年に除籍、明治二十九年に売却・解体されました。三年かけて届いた新造艦が、旧幕府艦として働いた期間は二年に満たありません。
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