【藩名】
高松藩
【説明】
寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主「徳川頼房」の長男「松平頼重」が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立しました。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられました。
幕末には慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府方に就いたため、朝敵となりました。高松藩の庇護を受けていた京都の興正寺は高松に使者を派遣し、責任者の処罰を行って新政府に謝罪することを勧めました。

土佐藩を中心とする高松討伐軍は丸亀藩・多度津藩を従えて高松に向かっていたが、高松藩と縁戚である徳島藩が協力に消極的で、松山藩討伐にも兵力を割く必要があった土佐藩の少数軍や洋式軍備されていない丸亀藩・多度津藩の両藩では攻略困難と見込まれました。ところが高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城されると、直ちに同城に入って接収を完了させました。

高松藩は責任者として執政の「小河又右衛門久成」と伏見役の総督であった「小夫兵庫正容」の2人を切腹させて首を差し出し、藩主自らは城下の浄願寺に入って謹慎しました。

興正寺などの取り成しによって2月には藩主「頼聰」に上京の上、謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤退しました。4月15日に新政府への軍資金12万両の献上と引換に高松藩は正式に宥免されました。しかし、この一連の動きに対する藩内の不満が高まり、明治2年9月に尊王派の「松崎渋右衛門」が暗殺され、頼聰以下の藩首脳はこの事件を松崎が新政府への反逆を企てた事が発覚した事による自殺として届け出ました。

だが、松崎と知己である「木戸孝允」らはこれを疑い、弾正台に再調査を命じます。その結果、藩内保守派による殺害と判明し、藩主頼聰は廃藩置県直前の明治4年7月に閉門処分を命じられるなど、多くの藩士が処分されました。明治4年(1871年)、高松藩は廃藩置県により高松県となり、のち香川県となりました。
高松藩をもっと深く——水戸の分家が、朝敵になった
兄が継げなかった家
高松松平家の初代・松平頼重は、水戸藩初代・徳川頼房の長男です。長男でありながら家督を継げず、讃岐十二万石に封じられました。水戸を継いだのは弟の光圀でした。
その負い目からか、光圀はのちに水戸の家督を自分の子ではなく頼重の子に継がせています。水戸と高松は、途中で血筋が入れ替わっているのです。だから幕末の高松藩は、尊皇論の総本山である水戸の分家として世間から見られていました。そこから話がややこしくなります。
大老の娘を妻に迎える
幕末の藩主・松平頼聰の正室は、彦根藩主・井伊直弼の娘、千代です。水戸の分家に、水戸ともっとも激しく対立した大老の娘が嫁ぎました。幕府としては、この縁組で両者をつなぎ止めたかったのでしょう。
万延元年、桜田門外で直弼が討たれます。手を下したのは、妻の夫の本家である水戸を脱藩した浪士たちでした。
文久三年、政局が転じて彦根藩が処分を受けると、千代は離縁され、井伊家へ戻されました。政略で結ばれた縁が、政略で断ち切られたことになります。
ところがこの話には続きがあります。明治五年、二人は復縁しました。仲介したのは、彦根と水戸の双方に縁のある有栖川宮熾仁親王だったといいます。離縁から九年が経っていました。幕末の政治に引き裂かれた夫婦が、幕府も藩も消えたあとにもう一度いっしょになっています。
そして朝敵になる
鳥羽・伏見で高松藩は旧幕府方として戦い、朝敵とされました。追討を命じられたのは土佐藩です。四国の中で、隣り合う藩が討つ側と討たれる側に分かれました。
藩は恭順を決め、家老の小夫兵庫と小河又右衛門が責を負って切腹しました。二人の死をもって、高松藩は取り潰しを免れています。伊予松山藩も同じ時期に朝敵とされ、同じく土佐藩に城を渡しました。四国の親藩・譜代は、そろって同じ道を通っています。
海の城と、砂糖の藩
高松城は堀に海水を引き込んだ水城で、堀には鯛が泳ぎます。天守は明治に失われたが、月見櫓と艮櫓が現存し、いずれも重要文化財です。
藩の財政を支えたのは讃岐三白——砂糖・塩・綿です。とくに砂糖は、藩が技術を保護して育てた産業でした。和三盆の製法はいまも受け継がれています。藩主の下屋敷だった栗林公園は、百年以上かけて造り込まれた庭で、藩の余力がどこに向かっていたかを今日に伝えています。城が焼けず、庭が残った藩でした。
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