常陸松岡藩(水戸藩支藩)中山家2万5千石:中山信徴 幕末時は水戸藩宗家より独立した松岡藩

常陸松岡藩(水戸藩支藩) 中山家2万5千石 最後の藩主 中山信徴
目次

常陸松岡藩の歩み

江戸時代初期に戸沢氏が常陸松岡に四万石で入封し、約20年間統治しました。戸沢氏が転封になると松岡周辺は水戸領となり、水戸藩附家老中山家が居館を築きました。第10代当主「中山信敬」は水戸藩主「徳川治保」の弟だったため水戸藩宗家一門に列し中山氏の地位向上に努めました。

同時に城下町の整備なども行なわれたため藩の財政はひっ迫され、家臣の俸禄借り上げなどが行なわれました。明治元年(1868年)一月、松岡藩は新政府軍に嘆願書を送り独立運動を展開し、正式に水戸藩から独立しました。明治二年(1869年)の版籍奉還で信徴は松岡藩知事となったが、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で松岡藩は廃藩となり松岡県となりました。同年十一月、松岡県は茨城県に編入されました。

本家・水戸藩との関係

常陸松岡藩は、水戸藩に連なる中山家二万五千石の藩で、もともとは水戸藩の重臣の家柄でした。

幕末、松岡藩は水戸藩の宗家から独立した一つの藩として認められました。尊皇の水戸に連なりながら、独自の立場を保った家です。最後の藩主は中山信徴です。

附家老が大名になった日

中山家は長いあいだ、大名ではありませんでした。水戸徳川家の附家老、つまり水戸藩の家臣という立場です。二万五千石を領し、松岡に城を構えていても、身分の上では陪臣でした。

それが変わったのが慶応四年(1868年)一月二十四日です。この日、新政府の特旨によって御三家の附家老五家が一斉に独立の大名に取り立てられました。尾張の成瀬家と竹腰家、紀伊の安藤家と水野家、そして水戸の中山家です。こうして常陸松岡藩が正式に成立しました。

附家老の家格をめぐる運動は江戸時代から続いていました。文化十三年には中山信敬が老中の水野忠成に単独登城と将軍御目見を願い出ており、文政八年には成瀬・安藤両家が単独登城を実現しています。二百数十年越しの悲願が、幕府の消滅とともにかなったことになります。明治二年の版籍奉還で信徴は松岡藩知事となって華族に列し、明治四年の廃藩置県で免官となりました。

中山信徴と、天狗党の乱のころ

幕末の当主は中山信徴(なかやまのぶあき)です。弘化三年(1846年)に江戸で生まれ、兄の信宝の養子となって文久元年(1861年)に十六歳で家督を継ぎました。信宝はこの年に世を去っており、天狗党の乱が起きた元治元年(1864年)の当主は信徴ひとりです。

その元治元年に松岡がどう動いたかは、資料が乏しくわかっていません。天狗党の乱を扱った記述に、中山家や松岡の名はほとんど出てきません。

はっきりしているのは、乱が終わったあとの動きです。水戸藩が諸生党に押さえられ、天狗党が一掃されたうえに鎮派まで弾圧されるという状況のなか、慶応二年六月、朝廷が信徴に上洛を命じました。信徴は七月十五日に江戸を発ち、月末に京都の本圀寺へ入ります。八月一日、関白の二条斉敬から藩政を鎮めるよう諭され、京都所司代では老中の板倉勝静から諸生派の処罰を命じる朝命を受けました。

これに対して信徴は、幕府の武力がなければ処罰はできないと答えています。附家老という立場の重さと限界が、この一言によく出ています。本家の水戸藩が割れたとき、支藩の常陸宍戸藩(水戸藩支藩)では藩主が切腹に追い込まれ、守山藩(水戸藩支藩)は戦わずに降りました。附家老の中山家は、朝命を受けながら動けないという別のかたちで、水戸の混乱を引き受けていたことになります。

松岡城(龍子山城)跡

松岡城は茨城県高萩市下手綱にあり、龍子山城、手綱城とも呼ばれます。標高五十七メートルの龍子山と、その麓の平山城の部分からなる城です。

役所が置かれていた三の丸が、いまの高萩市立松岡小学校の敷地にあたります。土塁と水堀、井戸の跡が残り、中山家の土蔵が小学校の校門のわきに移築されて現存しています。天守も櫓もなく、規模は陣屋ほどのものでした。山城の部分は荒れており、歩くのは容易ではありません。なお大手門が現存するという話も見かけますが、小学校の裏門に建つのは模擬の冠木門です。

中山家はどこから来たか

中山家は武蔵七党の丹党の流れをくむ家です。中山信吉が徳川家康に近習として仕え、慶長十二年(1607年)に水戸藩主の徳川頼房に附けられました。幼い頼房の行く末を家康から託されたと伝わります。

知行は慶長十二年に六千五百石、慶長十四年に一万五千石、元和七年に二万石、宝永五年に二万五千石と増えていきました。松岡との縁は元和八年(1622年)、松岡城主の戸沢政盛が出羽新庄へ移って松岡が水戸藩領となり、多賀郡松岡が信吉の采地となったところから始まります。正保三年(1646年)に子の信政が松岡に居館を築きました。宝永四年に中山氏が常陸太田へ移って城は無人となりますが、享和三年(1803年)に中山信敬が松岡城を整え直して戻っています。

飯能に眠る藩祖と、付家老の中山家

中山家のルーツ

中山家のルーツは武蔵国高麗郡中山郷(今の埼玉県飯能市)です。父の中山家範は北条氏照の家臣で、天正18年(1590)に八王子城で戦死しました。次男の信吉は兄の照守とともに家康に仕えています。中山家の菩提寺は飯能市の智観寺で、信吉の墓と木碑は埼玉県指定史跡です。この縁で飯能市と高萩市は平成15年(2003)に友好都市になり、高萩市は平成23年に信吉の坐像を作って智観寺に納めました。

戸沢政盛の松岡時代

中山家より前の戸沢政盛は、角館から4万石で移り、はじめ小川城、慶長11年(1606)に竜子山城へ移って松岡城と改めたとされます。元和8年(1622)に新庄へ移ると、旧領の大部分と松岡城は水戸藩へ入りました。

付家老として、そして藩として

10代信敬は水戸藩主徳川宗翰の九男で、婿養子として中山家を継ぎ、『松岡地理誌』を作ったとされます。慶応4年(1868)より前の中山家は水戸藩の付家老で、正式な藩主ではありませんでした。中山信徴は維新後に日光東照宮宮司などを務め、長男の信実が明治17年に男爵を授けられています。松岡小学校に残る中山家の土蔵は、昭和20年代まで奉安殿として使われたといいます。

考察:北条の旧臣が水戸の重臣に

八王子城で戦死した北条家臣の子が、徳川御三家の付家老となり、幕末には独立した藩になった。戦国の敗者の家が江戸時代を通じて這い上がった、見事な家の歴史だと思います。

場所・アクセス・地図

関東の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次