大宮藩/堀田家2万石:堀田正虎 福島藩へ移封のため廃藩

大宮藩 堀田家2万石 最後の藩主 堀田正虎
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大宮藩の歩み

下総古河藩主で、将軍「徳川綱吉」擁立で貢献した大老「堀田正俊」が貞享元年(1684年)に暗殺されました。死後、その遺領十三万石の内、家督と所領の大半は長男「堀田正仲」が継ぎ、正俊の次男「堀田正虎」は下野都賀郡で二万石を分与され大宮藩を立藩しました。

正仲はその後、出羽山形藩や陸奥福島藩に移封されていたが、元禄七年(1694年)に死去しました。正虎がその跡を継ぐこととなったため、正虎は福島藩に移り大宮藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の大宮

大宮は下野国都賀郡大宮、いまの栃木県栃木市大宮町です。堀田正虎が福島へ去ったあと、この村がどの領主のものだったかはわかっていません。栃木市域は慶長十四年(1609年)に皆川氏が改易されて以降、旗本領と天領が細かく分かれていきます。

ただし栃木市域そのものは、幕末の重要な舞台の一つです。慶応三年十一月二十九日(1867年12月24日)、出流山満願寺で竹内啓ら約百五十名の浪士が挙兵しました。薩摩による関東擾乱計画の一環です。彼らは栃木宿に入って足利藩の栃木陣屋に軍資金を要求し、十二月十一日には栃木町で戦闘になりました。町は四つの木戸口を閉めて防ぎ、浪士八名が討ち死にしています。十三日には新里村で幕府軍に包囲され、多くが戦死・捕縛されました。

この出流山事件が江戸薩摩藩邸焼討事件を誘発し、戊辰戦争開戦の一因になります。栃木の山寺での挙兵が、鳥羽伏見へつながっていったわけです。

大宮城跡は栃木市大宮町にあり、大宮神社の南東部に堀の跡が残っています。貞享元年(1684年)に堀田正虎が陣屋を置いたのもこの場所でした。

【廃藩のあと—幕末の大宮】

大宮藩は元禄七年(1694年)に消えているので、幕末に大宮藩はありません。まず場所を押さえておくと、この大宮は下野国都賀郡大宮、いまの栃木県栃木市大宮町です。埼玉県さいたま市の大宮ではなく、茨城県の常陸大宮でもありません。

十年で終わった二万石

貞享元年(1684年)の立藩から元禄七年の廃藩まで、わずか十年です。しかも廃藩の理由は不祥事ではありません。兄の堀田正仲(福島藩主)が亡くなったため、正虎がその末期養子として福島藩を継いだことによる廃藩でした。藩主が出世して、藩そのものが無くなった形です。

正虎はその後、元禄十三年(1700年)に出羽山形藩へ移り、宝永七年十二月十八日に従四位下。享保十三年七月七日に亡くなっています。

陣屋は中世の城跡に

大宮陣屋は中世の大宮城跡に営まれました。大宮城は築城年代が不明で小山氏の支城とされ、栃木市大宮町の大宮神社の南東側にあたります。北西隅の堀が残っているとされますが、栃木市の文化財一覧に大宮城跡・大宮陣屋の指定は見あたらず、廃藩後の帰属と幕末の領主についてもわかっていません。

同じ名の城が各地にあるので注意がいります。駿河国大宮城(静岡県富士宮市元城町)は今川氏真が永禄四年に改築し大宮司富士信忠が城代を務めた城で、下野国塩谷郡にも大宮城があります。いずれも大宮藩とは別です。

堀田家の分かれ方

堀田家はこのサイトの中に何度も出てきます。父の堀田正俊は大老で、貞享元年に江戸城内で刺殺された人。その次男が正虎(大宮から福島、山形へ)、長男が正仲(福島)。正俊の孫の正亮は延享三年に佐倉へ移り、幕末の老中 堀田正睦の家につながります。

さらに正俊の兄 堀田正信の子 正休が近江宮川藩を立てています。宮川藩の最後の藩主 堀田正養は、明治四十一年に第一次西園寺公望内閣の逓信大臣になった人です。大老と老中と大臣が、同じ堀田家から出たことになります。

同じころの日本—渋川春海の貞享暦

日本独自の暦 大宮藩が置かれていた貞享年間、貞享元年(1684)、幕府の碁打ちだった渋川春海(安井算哲)は、それまで八百年以上使われてきた中国の暦に代わる、日本独自の暦をつくりました。貞享暦です。春海は日本の土地で天体を観測し、暦のずれを正しました。

天文方 春海の功績で、幕府には天文や暦を受け持つ「天文方」の役職が置かれました。のちにこの天文方からは、伊能忠敬を支えた高橋至時や、シーボルト事件で処罰された高橋景保らが出ています。

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