【藩名】
浜松藩
【説明】
天保5年(1834年)、「水野忠邦」は老中となったことから1万石の加増を受けて浜松7万石の大名となります。しかし、「天保の改革」に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、家督を子の「水野忠精」に譲り隠居の上、さらに蟄居に処されました。そして、11月には出羽山形藩に移封となります。

その後、「井上正春」が上野館林藩から6万石で入封します。明治元年(1868年)9月、第2代藩主「井上正直」は「徳川家達」が駿河・遠江・三河70万石にて駿府藩主になったことから、上総鶴舞藩に移封され浜松藩は廃藩となりました。
浜松藩領はその後、駿府藩の支配を経て静岡県に編入されました。他に井上氏の支藩が下総高岡藩と常陸下妻藩があり、どちらも「廃藩置県」まで存続しています。
江戸時代の浜松城に、天守はありませんでした
いま浜松城に建っている天守は、昭和三十三年の再建です。ではその前の天守はいつまであったのか。答えは「江戸時代の前期まで」で、幕末の浜松城に天守はありません。
浜松市の説明はこうです。天守の築造は堀尾吉晴の在城期(1590年頃)とする説が有力で、形式は望楼型、規模は四重五階で「巨大な天守だったと考えられ」る。ところが「十七世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていた」と考えられています。
つまり水野忠邦も井上正直も、天守のない城の主でした。そのかわり天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持され、明治六年(1873年)に解体されて払い下げられました。安政元年(1854年)の地震では「櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた」と市は記しています。
石垣を見に行く城です
天守がなかったぶん、この城で見るべきものは石垣です。浜松市が詳しく解説しています。
積み方は野面積み。「自然のあるがままの石を使い、接合部をほとんど加工しないで積む」工法で、各段は布積技法で積むため「布積崩しと呼ばれることもある」。突角部は算木積みです。
石材は珪岩がほとんどで、ほかに石灰岩と結晶片岩。この珪岩は浜名湖北岸(庄内地区の大草山・根本山、対岸の湖西市知波田付近)で切り出され、船で運ばれたと推定されています。市は「特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています」「四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している」と書いています。
天守台そのものも変わった形です。一辺二十一メートルのややいびつな四角形で、西側に「八幡台」と呼ばれる突出部、東側に「付櫓」と呼ばれる張り出し部が付きます(付櫓の位置が、現在は復興天守閣への入口になっています)。
「出世城」の中身
浜松城が「出世城」と呼ばれる理由は、家康にまつわる話だけではありません。
浜松・浜名湖の公式観光サイトは、その由来を「家康のもとで政治や軍務を学んだ多くの家臣が、のちに幕府の要職に就いたことから」と説明しています。家康の在城は二十九歳から四十五歳までの十七年間(1570〜1587年)、以後この城には二十五代の城主が入りました。
そして世界大百科事典は、浜松藩について「諸藩中最も多数の老中を出した」と書いています。老中になった城主を並べると次のとおりです。
松平和泉守乗寿(1638〜1644年)、松平伊豆守信祝(1729〜1744年、大坂城代も)、井上河内守正経(1758〜1766年、寺社奉行・大坂城代・京都所司代を経て老中)、水野越前守忠邦(1817〜1845年)。ほかに太田摂津守資次(1671〜1678年)が寺社奉行と大坂城代を務めています。
ここで押さえておきたいのは、十八世紀にすでに井上家が浜松城主だったことです。井上正経の時代があるため、幕末の井上家は「井上家第二次」と呼ばれます。井上正直は、先祖が老中を務めた城へ戻ってきて、自分も老中になった人です。
水野忠邦の浜松
その「出世城」で最も知られた城主が水野忠邦です。
文化十四年(1817年)、肥前唐津から六万石で入封。天保五年(1834年)に老中、天保十年(1839年)に老中首座、そして天保十二年(1841年)五月十五日に天保の改革の上意が発せられました。
失脚は天保十四年(1843年)閏九月です。「一八四三年閏九月の上知令撤回を機に、同月十三日老中罷免」。このとき「江戸屋敷に投石する者が押し寄せた」と記録されています。
そして浜松を去るのは弘化二年(1845年)十一月、「嫡子金五郎が十一月に出羽山形五万石へ転封と発令」されたことによります。失脚から移封までは約二年、しかも移されたのは忠邦本人ではなく嫡子でした。天保の改革を主導した人の家が、六万石から五万石へ減らされて奥羽へ動かされたことになります。
井上家の浜松と、襲封の年
その水野家に代わって入ったのが井上家です。弘化二年(1845年)、井上正春が上野館林から六万石で入封しました。ただし正春は弘化四年(1847年)に四十三歳で死去してしまいます。
ここで年号を間違えやすいので明記しておきます。井上正直が家督を継いだのは弘化四年(1847年)です。弘化二年は父正春が浜松に入った年で、正直の襲封とは二年ずれます。
正直は天保八年十月二十九日(1837年)生まれ、通称は英之助、官位は河内守。老中は二期で、文久二年に就任、慶応元年に再任されています。戊辰のときは満三十歳。明治三十七年(1904年)三月九日に六十八歳で亡くなりました。
井上家の治世について、コトバンクは「殖産興業(遠州縞の開発など)」を推進したとしています。
藩校と、遠州の織物
浜松藩の藩校は経誌館と克明館です。
産業では織物が重要です。静岡県の「遠州織物の歴史」は、江戸時代中期に「綿花の産地であったことから、農家が手織りの綿織物づくりを副業とするようになりました」としています。幕末の浜松は、農家の副業としての手織り綿織物が広く成立していた土地でした。井上家が開発した「遠州縞」もこの流れです。
機械化は近代に入ってからで、明治十七年に紡績工場、明治二十九年に豊田佐吉が小幅力織機を発明、昭和四年のサロン織機の発明で広幅織物の生産が大きく伸びます。なお浜松ゆかたの注染は大正初期に始まったもので、幕末の産業ではありません。
城跡は市の指定史跡です
浜松城跡の文化財の区分は、国でも県でもありません。浜松市指定史跡で、昭和三十四年(1959年)六月十八日指定、令和三年(2021年)一月二十八日に追加指定されています。指定範囲は天守曲輪や本丸を中心とした範囲です。
復興天守は昭和三十三年(1958年)四月二十六日完成。市の記録では「市民の長年の願いであった浜松城の再建。市民有志による募金活動などの協力を受け、四月二十六日に浜松城天守閣が完成しました」とあり、総工費千四百万円、高さ十三メートル。その翌年に市の史跡指定を受けた、という順序です。
天守門のほうは復元されました。平成二十一年(2009年)十一月十六日から十二月八日の発掘調査で四つの礎石と二つの礎石抜取穴が見つかり、計六つの礎石と推定されました。十二月五日の市民説明会には四百十二人が参加したと市は記録しています。復元整備は平成二十四・二十五年度に行われ、木造・櫓門・入母屋造りの本瓦葺きで、高さ十・二八メートル、門幅四・〇九メートルです。
浜松城公園では天守閣を中心とする一・八ヘクタールを「歴史ゾーン」として整備しており、平成三十年度に本丸南広場が完成しました。
もう一か所、元城町東照宮(浜松市中央区元城町)は浜松城の前身である引間城の跡地に建っています。ここには「二公像」として家康と秀吉の像が並んで置かれていて、市は「天下人となった家康公と秀吉公の二人の武将が訪れた場所」と紹介しています。家康が入って城の名を変える前、この土地は引間と呼ばれていた。鶴舞藩へ移った井上家が去るまで、二百七十年あまり続いた城下の始まりの場所です。
【場所・アクセス・地図】
浜松藩をもっと深く——老中の城下から、勤皇の隊が生まれた
浜松藩井上家六万石は、幕末においてはっきりと二つの顔を持っています。藩主は幕府の老中、領内には勤皇の隊。この分裂が、そのまま遠江という土地の位置を表しています。
ペリー来航のとき、藩主は十代半ばだった
浜松藩を語るときによく混同されるのが藩主の代です。井上正春は奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任し、天保十一年には西の丸老中になった人物だが、弘化四年に四十三歳で没しています。ペリー来航の六年前です。
嘉永六年にペリーを迎えたのは、その四男の井上正直でした。天保八年生まれだから、当時十代半ばです。
老中、そして外国御用取扱
正直の履歴は幕末の幕政そのものをなぞっています。安政五年に奏者番、文久元年に寺社奉行兼帯、文久二年十月に老中(元治元年まで)。この間、文久三年から元治元年にかけて外国御用取扱を兼帯しました。そして慶応元年十一月、老中に再任される(慶応三年六月まで)。
慶応二年には、長州藩への第二次征討で将軍徳川家茂に従って上洛しています。開国の実務と、幕府最後の戦争の両方を見た老中です。
藩としては殖産興業にも力を入れ、遠州縞の開発や、海防のための御台場建設を進めました。
遠州報国隊——神主たちの軍
ところが領内では、まったく別の動きが育っていました。遠州報国隊です。
中心になったのは浜松諏訪神社の杉浦大学ら、この地方の神官たちでした。背景にあるのは平田派国学の広がりです。三河の羽田野敬雄(吉田藩領の羽田八幡宮神職)が平田篤胤の門に入って三河・遠江西部から多数の門人を送り込んでおり、遠州報国隊はその土壌の上に生まれています。
そして慶応四年、遠州報国隊は東征軍に従軍しました。藩主が老中を務めた藩の領内から、官軍について江戸へ向かう隊が出たことになります。
「藩論を勤王に導いた」と評されるのは、この神官たちの動きです。慶応四年、正直は朝廷に恭順しました。
そして遠江を去る
明治元年九月、徳川家達の駿府七十万石立藩(駿府藩)にともない、井上家は上総鶴舞藩へ移されました。浜松藩は廃藩となり、駿河・遠江は静岡藩に組み込まれます。
同じ玉突きで沼津藩は菊間藩へ、掛川藩は松尾藩へ、相良藩は小久保藩へ、横須賀藩は花房藩へ移っています。
正直は鶴舞で藩庁と城下町を新たに造り、明治四年の廃藩置県で免官されました。徳川家康が十七年を過ごした城の主が、徳川宗家が帰ってきたことで城を去ります。浜松という土地の巡り合わせです。

