【藩名】
小久保藩
【説明】
明治元年(1868年)9月、遠州相良藩主「田沼意尊」が徳川宗家の駿河・遠江移封による替地として上総国天羽郡小久保を与えられたことで立藩されました。意尊は、第10代将軍「徳川家治」のもとで老中を務めた「田沼意次」の曾孫です。翌年6月「版籍奉還」により意尊は小久保藩知事となります。
意尊は洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力したが、同年12月に病死しました。養嗣子の「田沼意斉」が家督を相続し、同様に藩校創設に尽力しています。明治4年(1871年)の廃藩置県により小久保藩は廃藩となりました。
花房藩/西尾家3万5千石:西尾忠篤 徳川宗家の駿河移封の替地として横須賀藩から転封した西尾氏
菊間藩/水野家5万石:水野忠敬 沼津藩からの移封により立藩
長尾藩/本多家4万石:本多正訥 徳川家の駿河転封に伴い国替えにて立藩
桜井藩(貝淵藩)/松平家1万8千石:松平信敏 徳川宗家の駿河転封による替地として立藩
鶴舞藩/井上家6万石:井上正直 徳川家の駿河・遠江入封に伴い浜松藩から移封の上で立藩
松尾藩(柴山藩)/太田家5万3350千石:太田資美 西洋稜堡式要塞を築城中に廃藩置県となった松尾藩
天狗党を斬った男に、最後に与えられた一万石
田沼意次の曽孫でした
小久保藩を開いた田沼意尊は、田沼意次の曽孫にあたります。意次の失脚で田沼家は相良を追われて陸奥下村へ移されましたが、意次の四男意正が文政六年(1823年)に相良への帰封を実現し、家中から中興の主と仰がれました。意尊はその流れを受けて天保十一年(1840年)に相良藩主となった人です。田沼氏そのものは下野国安蘇郡の佐野氏の分家を称しますが、この出自については研究者のあいだで議論があります。
敦賀の鰊蔵で三百五十二人を処刑した若年寄
意尊は文久元年(1861年)九月十四日、四十三歳で若年寄になります。そして元治元年(1864年)七月八日、天狗党追討軍の総括に任じられました。幕府軍の本隊を率いて進み、天狗党の進路にあたる諸藩へ追討令を発します。加賀藩に投降した一党の身柄を引き取ると、敦賀の鰊蔵に押し込め、慶応元年(1865年)三月一日から武田耕雲斎ら幹部二十四名を斬首、三月二十日までに捕虜八百二十八名のうち三百五十二名を処刑しました。幕末の処刑としては最大級の規模です。意尊は慶応二年(1866年)十月四日に若年寄を解かれました。
朝敵になったからではなく、静岡藩に押し出されて
田沼家が遠江相良から上総へ移されたのは慶応四年(1868年)九月です。理由は処罰ではありません。徳川宗家が駿府七十万石へ移ることになり、その替地として相良が召し上げられたのです。新しい領地は上総国周准郡と天羽郡で一万石余。相良時代の一万三千二百四十三石に比べると目減りしており、あわせて三年間の現米と金三千両が支給されました。天狗党を斬った幕臣が、その幕府の消滅によって房総の小藩主になった。小久保藩とはそういう成り立ちの藩です。
士族にも平民にも開かれた藩校
意尊が創立した藩校は盈進館といいます。開校は明治三年(1870年)十月。士族の子弟には就学を義務づけ、あわせて平民の子弟の入学も許しました。同年十一月には洋学が加えられ、間宮濤之助という教師が英語・算術・地理・歴史を教えたと伝えられます。藩が消える前年に、身分を越えた学校が房総の村に立ち上がっていたことになります。陣屋は明治二年(1869年)に着工しましたが完成前に廃藩となり、建物はそのまま小久保県の県庁と県知事の邸に使われました。
養子は、勝浦を継いだ大岡家から来ました
意尊は明治二年(1869年)六月二十四日に知藩事となり、七月に入領しましたが、同年十二月二十二日に家督を譲って二日後に世を去ります。跡を継いだ田沼意斉は、武蔵岩槻藩主大岡忠恕の五男でした。岩槻の大岡家といえば、勝浦藩の改易後にその領地を与えられ、房総に飛地を持っていた家です。房総の二つの小藩が、思わぬところで同じ家につながっています。
爵位を返して終わった家
明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で小久保県となり、同年十一月十三日に木更津県へ統合されました。意斉は明治六年(1873年)十一月に家督を意尊の長女智恵へ譲って隠居し、田沼家を離れます。智恵の入婿となったのは少納言伏原宣諭の次男望で、明治十三年(1880年)十二月十一日に家督を継ぎ、明治十七年(1884年)七月八日に子爵を授けられました。ところがその子の正の代、大正九年(1920年)六月十五日に爵位が返上され、田沼家は華族の列から自ら降りています。老中を出した家の、これが最後の身の処し方でした。
陣屋跡のいま
小久保陣屋があったのは富津市小久保、弁天山古墳の南西の麓で、いまの富津市中央公民館の敷地にあたります。明確な遺構はほとんど残らず、県知事邸の庭園らしきものと陣屋跡の石碑があるばかりです。隣の弁天山古墳のほうは昭和四年(1929年)十二月十七日に国の史跡に指定されています。
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